ジャン=リュック・ナンシー「身体をめぐる省察」

 本日、早稲田大学文学部フランス文学専修室主催の講演会、ジャン=リュック・ナンシー氏「身体をめぐる省察」に行って来た。前日の日仏学院飯田橋)での講演は満員で、通訳を聴く機械ももらえず、留学したてのころを思い浮かべながら、知りもしないフランス語をずーっとただ浴びていた。何か、折角来たのに帰るのもしゃくだったので帰るのもやだったのだ。で、ここぞとばかりに大集合したナンシーの著作を、買う気まんまんでずっと立ち読み。けれど、結局どれにするか決められず、買わずじまい。編集者の方々に申し訳なかった。なので、今日はしっかり、一時間前に行って、ベストポジションをゲット。本日も「満員御礼」状態。人気あるんだねー、ナンシーって。
 さてと、せっかくメモをとってきたので、ここに載せておきます。が。が。酷い‥‥。何がなんだか、本当に分かりませんよ。自分の理解能力の悪さに辟易。列挙された例を全部書き留めることは不可能でしたので、全部を書ききれていないところは「etc...」と記してあります。こういうところに彼のセンスが光るのでとても残念。単純に聞き損ねたところは、「‥‥」としました。それと、58番まであったはずなのに、私のメモは57しかない! ガックし。ということで、聴講していた方、どなたでも構いません。どんな些細なことでも構いませんので、フォローお願いします。(特に、今日隣に座ってた、『共同-体』読んだっていうY。)

共同‐体(コルプス)

共同‐体(コルプス)

 「身体をめぐる省察
 この講演は、『共同-体』の第三版を補完するものである。この書物は身体に関する58の断章、指標からなっている。今日はその指標を順番に述べて行くことにしたい。

 身体に関する58の指標
1. 身体は質量質料的(materiel)なものであり、密度があり、それをバラバラにすることは身体を引き裂くことである。
2. 一個の身体は別の身体でもある。
3. 身体は空虚ではなく、他の身体、器官、管、梃子、ジャバラ、自分自身、それがそれであるところのもの、全てである。
4. 身体は、縦・横・高さ・深さがある。痩せていても太っていても広がりやサイズがある。
5. 身体は非質量質料的である。デッサン、輪郭、(「見られたもの」としての)観念etc...
6. 「魂は有機体の形相である」とはアリストテレスの言葉だが、身体は魂・形相の形である。???
7. デカルトが言ったように(?)魂は身体に沿って、接しつつ、どこかしこにも浸透する。ユビキタス、everywehereにある魂が身体に息を吹き込み、肉付けする。
8. 魂は質量的だが、場所もサイズも重さもない。つまり、捉えがたい質量質料的なものである。なぜなら、魂は視覚を逃れるからである。
9. 身体は可視的だが、魂は不可視だ。盲人が足を一歩踏み出すのを見ることは出来るが、悪い魂が一歩踏み出すのをわれわれは見ることができない。そして、(このようなものとしての)魂の麻痺を避けるためには、思考しなくてはならない。
10. 身体は魂にとって牢獄である。‥‥見分けにくい罪??‥‥。身体は魂にとって居心地が悪いものである。‥‥。身体は汗を出すし、排泄するし、傷付くetc...。
11. 歯は格子であり、そこから魂が漏れて行く。言葉(paroleという語が聞こえた)とは、身体から流れた空気の穏やかな襞のことである。
12. 身体は様々なこと――自分自身を語る、夢を見るetc...――が出来る。また、皮膚、意志、金属etc...あらゆるものを感じる。
13. しかし(それらを)感じるのは、まず魂である。そして魂はまず、身体を感じる。身体が魂を留置しなければ‥‥‥出来ない。(肝心なところが分かんなかった‥‥。)
14. 身体は純然たる精神のようなものである。唯一の‥‥。両目の周り、肋骨の間、点、‥‥。(同上。)
15. 身体は牢獄/神、死体/栄光、そのどちらかでしかない。間を引きずり出すのが解剖学である。不動の栄光のことを彫像と言う。
《時間の都合上、省略》
25. 人間が神の姿に似せて作られたのであるならば、神も身体を持っているのかも知れない。もしそうであるならば、諸々の身体を思考する身体であるだろう。
26. 身体は牢獄/神、封印/開封、死体/栄光、折り畳み/繰り広げのどちらかでしかない。それらの間はあり得ない。
27. 身体の肉断線(?)、隣り合い。身体は様々な信号、シグナルや合図を出す。例えば、若々しさ、倦怠、炸裂、ぎこちなさ。また交差し合い、押し合い、映画館では10人の人間の前を通過して、自分の座席についたりもする。
28. 頭は、身体的な意味での首を切らずに、離脱し、塹壕の中に切り離されている。頭にあるいくつかの穴々は、身体の外へと掘られた脱獄腔(だつごくこう)である。鼻、耳、目、口など、頭には開口部が集中している。‥‥。脈が通った首が、複雑な身体を畳みながら単純な頭に繋いでいる。(もしかしたら、ここが二つに分かれてたのかも。)
29. 身体には差異がある。それはつまり、身体には力があるということである。この「力」は、精神のことではない。なぜなら、精神は同一化するものだからである。汝/我、鯨/タコ、山/氷河、トカゲを前にした犬(?)‥‥。??
30. 一個の身体は一つの差異である。これは差異は精神ではない。あらゆる身体はどんな身体とも異なっている。また、自己からも差異化する。赤ん坊と老人の身体をどのように考えるべきか?
31. 差異ある身体はどれもみな、「奇形」である。言うなれば、奇形しかない。完璧な身体などというものは存在しない。
32. 身体たちは、交差しかすめ合い、ぶつかり合う。これら全てはシグナルであり、語りかけであるが、どんな意味(定義されたもの)もそれらに追い付くことがない。身体というのは、意味の誇張である。身体が死んだとき、つまり硬直化したとき初めて身体は意味を得る。身体を魂の墓場とする考えは、ここから来ているのかも知れないが、しかし、身体は魂が動かされたものである。
33. 一つの身体、あるいはいくつかの身体というのは存在しない。身体は差異を孕んでいる。それは接し、緊張し、コントル(抵抗しつつ、接するという意味の語)して実存する。身体は差異の戯れである。
34. 固有であるために、身体はエトランジェ(固有化されるもの、異邦人)でなくてはならない。侵害することなく侵入できない。精神はpunktuell点的である。それは、自己の内で自己であることだが、身体は腫れ物、悪性腫瘍のようにそこに侵入する。
35. 宇宙的身体。身体は、少しずつ近いものから近いものへと接触して行く。例えば、人が椅子に坐るとおしりが椅子に接し、椅子は床に、床は家の土台に、土台は地面に、地面はマグマやプレートに‥‥といった具合だ。これを逆向きに辿ると、身体は大気に接し、果ては銀河に接する。身体は、普遍的実質、物質にひっぱられたマリオネットである。
36. 食べることとは、(食物の)体内化ではない。それは、飲み込むものへと身体を開くこと、内部を発散させることである。同じように、走ることというのは、空気に内部をさらすことである(?)。そもそも体内化というのはあり得ない。そうでなくて、外出、発散、穴の広がり、排出、横断、揺れ動きがあるのだ。セイチョウは形而上的な‥‥である。
37. 「これは私の身体である」という言説は、恒常的な無言の断言である。この言説は誰に送り返されるだろうか? 身体の所有性、固有性はいかなるものなのだろうか? どんな正統性があるというのだろうか?
謎のメモ
誰→身体、人/〜の、所有
所有権というのは、労働、獲得、自然権と三つの権利を内包している。「私の身体」という表現にある二つの項(「私の」と「身体」?)は、指定され得ないところに送り返させる。‥‥(私の身体が私の所有物ならば、私が身体を作ったというのだろうか? っぽい問いかけ、あるいは考え?)‥‥。私はもしかしたら、私の身体に到着する前夜にいるのではないだろうか?
38. 真実を言えば、「私の身体」が指示するのはポゼッションpossession(憑依、占有の意味がある)であって、所有ではないのだ。言うなれば、合法・正統化なきガイユウ(外有?)化我有化である。私は身体を好きに扱えるが、同時に身体も私に憑依し、私を拒むこともある。身体と私の関係とは、互いに憑依されるカップル、ダイモーン的カップル、ダンサーなのだ。
39. (possessionの動詞)possessedの語源は何かの上に座っていることである。私は私の身体の上に坐っている。或は、モウジャ(亡者、盲人?)の肩に登った小人である。そして身体もまた、私(の上?)に座っている。
40. 身体は、様々な部品、断片、状態、機能、頭、火傷、消化、いらだち、再生、修復、潤滑液、ねじれ、ほくろetc...などからなる集積体である。corpsのcorps? →器官なき身体であっても100の器官があるのであり‥‥。‥‥脱有機化する。
41. 身体は感性的な放出などが得意である。(affectという語が聞こえた。)抑揚、起伏、代替不可能な輪郭(?)。身体の突端、ショメイ(署名?)、匂い。チンプンカンプン。
42. 身体は頭や四肢、突端(周辺環境から?(メッセージだったかな?)を取り入れ、歩くなどの行為をする)とは区別される。身体はむしろ、幹、柱、大枠であり、頭は点である。?(こっちがメッセージだったかな?)が出て行って帰ってくる「開け」になっている。身体は自己の中に措定されている。発達の悪い頭は、身体に一本のピンのように突き刺されている。
43. 身体は対自の即自である。自己との関係なき関係? 身体は貫くことが不可能である。身体はかたまり、粗野、非感性的。身体は対他の即自でもある。他を向いていながら、他への考慮を欠いている。身体は絶対的な仕方で、ただeffectivなだけである。
《CPUの限界を感じるぜ‥‥。》
44.身体は自分の秘密を守る。自分の秘密というのは精神という無のことである。(精神は?)身体の中にあるのでなく、身体を通して発散される。 身体には如何なる隠れ家も、秘密の内奥もない。自らを秘密として守る。だからこそ、身体は秘密のまま墓へ行く。(身体には?)passageパッサージュのいくつかの指標があるのみ。
45. 何故、「特徴」や「弁別記号」でなく「指標」なのだろうか? それは、身体は逃れるものであり、確保されず、同定されないからだ。‥‥。身体は大きな別のもの、家、ロバ、マットレスなのか? もしそうであるならば、身体が死ぬときに出て行く魂という別の身体の分身に過ぎないのかもしれない。私たちには、ただ、痕跡、遺跡ががあるのみである。
46. 魂、身体、精神。身体とは‥‥のことで、精神とは魂を生み出す力である。つまり、身体は精神をexpress外に出す。精神を外へ沸き出させ、樹液を引っ張りだす。身体とは、爆発であり燃焼である。
47. 身体は私たちのものだ。(だが、固有存在としての身体は我々には所属しない?)‥‥。身体は私たちのものであると同時に、私達自身でもあるのだ。同一性が分解されるまで、私自身??
48. 何故「指標」なのか? なぜなら、身体の総合的統一などないからだ。末端(眉、親指の爪etc...)が次々と続くのみである。解剖は果てしなく身体を細かく分解し、最終的には細胞の列挙をすることになる。だが、それすらも「全体」ではないのだ。断片のリストを作っている間ですら、明細書は無益に数えることしか出来ない。
49. 身体の外部性、他者性には堪え難いものもあり、例えばそれは汚物にまで及ぶ。だがそれも、身体の実質であり、活動である。イボ、腫瘍etc...同化吸収のプロセスの‥‥を自己から切り離す。魂は、美しくあるところの身体のある部分について、沈黙しかできない。
50. 身体の明確さ。身体は、右足の親指の末端、乳首、深部、右、左etc‥‥にある。四散、点的、苦しみ、快楽を得るetc...。またキーボードに触れる指は、機械的伝達をもする。身体は四散したものという性格を保持している。
51. 身体の不明確さ。ここにある人がいるとする。40歳くらいの男性。堅苦しい感じでおどおどしている。医者か、教授か判事か? 日焼けした顔からすると、地中海地方の出身だろうか。また、自分を好きかどうか怪しい。ここには、生物学的、動物学的、心理学的、文化的、社会的指標が散乱している。変装はこれら、諸々のタイプの中から借り受けてくるので、変装で欺かれる以外、(彷徨ってしまうことはない?)‥‥。性別化、定数、合理化に起因して、無限の差異化のまっただ中でさえも、タイプ化がある。どこが始まりとしての単独で、どこが終わりとしての類型なのか、誰も言うことができないのにも関わらず。
52. 定数外のもの、過剰なものが出現する。過剰なものとは、性的なものである。だから、最近洋服などでunisexというのが流行っていたりするが、unisexの身体などない。身体は一つの性を有する。生物学的な特性、――乳房、染色体、ペニスetc...――がある。身体は無性ではない、有性である。‥‥この辺はもう、断片だらけ‥‥。関係の内にあるものとして存在する‥‥。‥‥性によって自己の限界に触れる。‥‥身体の身体性‥‥自分自身の内部に享受することで外部へも出す。だが、??の享受は大抵、痙攣や溜め息などで外に出て行く。‥‥有/無が交錯する。
53. 類型(タイプ、タイプ化)の否認。これは、人種差別への反対からの帰結である。遺伝学や社会的風習をごちゃまぜにした(この類型という)ものを消去しなければならない。そうすることで、それぞれの男、それぞれの女の比較不可能なもの、比類なきものが浮かび上がって来る。
54. 身体、皮膚以外は医学上の文学である。体液や腺、、器官とは認識上のフィクションに過ぎない。真理は皮膚の中にあり、皮膚をなす。包み込む封筒であると同時に、全体が外部に晒されている。また、内部の刻印を記載し、同時に外部の刻印をも記載する。切り傷、瘢痕(ハンコン)、火傷の傷etc...。
55. 撞着的、多形的身体。質量/形相、同形/異形、自律/他律、私のもの/無etc...。
56. 指標的身体。身体には何ものか、本心を覗かせる誰かがいる。男の女の誰か、何らかの記号、原因、結果、底の何らかの仕方??。近いけど遠い、あそこ、ラバ? の仕方がある。
57. 身体とは、触れられつつ触れる。傷付きやすく脆弱。逃亡し、把握不可能、外皮なし身体、我々の影なき洞窟に貼られている皮膚なのである。

休憩をはさみ、質疑応答。

質問1(多分こんな感じ):「浸透圧」とは、例えばなめくじに塩をかけると、全ての水分を逃してしまうように、生物が水を体に入れたり出したりすることであります。これは人間などで言えば、皮膚の穴の開け閉めなどによります。これは、身体、魂、精神、どの機能によるものなのでしょうか?
(っつーか、この質問、答えるの不可能とちゃう? ナンシーはそもそも、何かの「機能」について語ったのではないのだから。この方は「何故『浸透圧』という現象(?)が起きるのか、教えて下さい」と言っているようなものでしょ。)
答え:(始めの方は分からず)。内部/外部との不確実なバランスを保っている、両者の間の揺れ動きが身体なのです。先ほども登場した「コントル」という語、これには近い/対立する、押す、抵抗する/遭遇的出会いの三つの意味がありますが、この言葉は、浸透圧というテーマに合うかもしれません。

質問2:現在、テクノロジーがどんどん身体の中に入り込んで来ています。例として、サイボーグは、人間と機械のハイブリッドだと言えます。他なるもの、異なるものが人体に入って来ることについて、どう考えていますか?
答え:身体とはそれ自体、テクノロジー的なものだということができます。つまり、身体をサイボーグ技術として考えることが出来るのです。テクノロジーの語源とされるテクネーという語にはhow-toという意味と、art技芸、何かをするための手段や手はずという二つの意味があります。人間の身体は、自分に欠けたものを補ったり、増大させたりする一つの力としてとらえることができます。このことで、身体は生きています。言うなれば身体とは技術テクニークなのです。身体とは、外的環境との関係の延長です。身体とは一つの技術網、オスモーズ(細胞間のやりとり)なのです。内と外の媒介としての身体‥‥。(要するに、「身体に自/他(異)、内/外がある。身体が自なら、機械や技術は異である」という考え方をナンシーはしていないのだろう。人間は、一個の独立した内部を持ってindividuelに生きているように見えるが、実はそうではないのだ、と。)

質問3:ガブリエル・マルセルやメルロ-ポンティは「私は私の身体である」、またサルトルは「私は‥‥である」と言いました。このことを私は、「私は私の身体を生きている」それはつまり「生きた身体を通して存在している」と理解しています。この考えについてどう思いますか?
答え:身体とは無であり全てです。身体は宇宙、あらゆる外部、他の全てに触れています。‥‥「私は神である」‥‥。「神」という語は、何らかの分離を含んでいて、ラテン語で「ディエス」、「夜から分離されたもの」の意味です。この語には、分離/ディスタンクシオン、卓越という語が内包されています。「私の身体」とは、卓越した分離、全てであると同時にコントル――私は私以外の残りのもの全て――なのです。??。マルセルやメルロ-ポンティが言わんとしたのは、「私は分離の中にいる」ということではないでしょうか。だからこそ私は「皮膚」という言葉にこだわります。この分離なしにはコミュニケーション(分離それ自体とのコミュニケーション)もあり得ません。彼らの言葉は「私は私から分離している」ということでもあるかも知れません。

質問4:ナンシーさんのお話を聞いていて、ミシェル・ドゥ(ダ? ジ?)ギーという詩人・哲学者の「魂とは比較である」(身体化できないから、比較においてしかあり得ない)という言葉を思い出しました。この言葉についてと、詩と哲学の関係についてどうお考えですか?
答え:この言葉を私は知りませんでした。日本において、このような言葉を知ることとなったのを喜んでいます。魂とは物体ではなく、それを通して風が通過するような、そんな空間として考えています。先ほど浸透圧に関して、内部/外部の通過について触れましたが、皮膚としての身体は、外へ向う広がりであり、圧力です。その一方、魂とは何か音楽的な比喩です。‥‥。デカルトでさえ、魂を一つの広がり、全てのものが集まるような広がりとして捉えていました。広がりの広がり(とは?)パイロットのようなものです。外の空間に対して、パイロットの空間が広がって行くのです(?)。‥‥開かないものへの広がり?。ここにある種のパラドクスがあります。魂の限り=時間の外で、広がりの外部に存在するといえるかも知れない??。哲学と詩の関係についてですが、ただ一言「ウィ」と述べておきます。詩は哲学の身体なのです。

質問5:身体は教育、拘束の対象になりうるか? 教育機関などにおいて、身体の飼い馴らしというのをしばしばみることがあるが。
答え:身体の飼い馴らしと言う問題は、「類型」について述べたところに関係しています。スポーツや学校、家庭などにおいて、身体に刻印を施すことが実際に行われています。ボディビルディングは、身体を別のものとして形成することですが、身体と魂の間には分離がありません‥‥??‥‥。われわれは常に、身体を教育する可能性の中にいます。私はたくさんの薬=外的なものを飲んでいますが、これによって刻印を受けるのではなくて‥‥??‥‥、存在そのもの?? 全く分かりません、この辺。(通訳が一人じゃ限界があります。仕方ないです。)


最後、拍手はかなり盛大でした。コンサートなら1、2往復は軽くしてるくらいに。あと二回も楽しみです。この人気具合だと、相当込むだろうな。
東京での講演あと二つは以下の通り。
4月15日、15時から、東大駒場キャンパス、国際交流ホール、「無-無神論」ナンシー+鵜飼、西谷、他。
4月17日、18時から、日仏会館(恵比寿)、1階ホール、「無神論と一神論」