ミルトン・エリクソンMilton Erickson

 心理療法家、ミルトン・エリクソンMilton Erickson(アイデンティティ理論のErik Eriksonではない)の治療事例集、『私の声はあなたとともに』を読む授業に潜ることが許された! 初回の先生の解説を自分の言葉を加えながら少しまとめておく。

私の声はあなたとともに―ミルトン・エリクソンのいやしのストーリー

私の声はあなたとともに―ミルトン・エリクソンのいやしのストーリー

 エリクソンは、「天才的」としか言い様のない、恐ろしく優れた精神科医(あるいは催眠療法家、心理療法家、肩書きは何でもいいと思う)である。これが彼がどれほどずば抜けているかを示す良い例となるかどうかは分からないが、フロイトのもとに六年間通って全く治らなかった人が、エリクソンの面接、たった一回ですっかり治ってしまったなんてことがあったそうだ。フロイトがそもそも治療家として無能だったことを考えると、これは決して「良い例」などではないのかも知れないが、それでもやはり、長年悩んでいた人を一発で解放してしまうだなんて、かなりのインパクトがあるだろう。
 これからこの書物を繙くことで、エリクソンの驚くべき治療の数々を目にすることになるのだろうが、その前に、彼の特徴のようなものを確認しておく。まず、彼は患者に病名を付けない。決まった病名を付けることは、それに対応する一定の治療法、理論を選択することにもなる。例えば「この患者は◎×型〜症だから、△先生の※■療法を試してみよう」などといった具合に。だがエリクソンは、患者を実際に前にしたり、手紙や人から聞いた話を頼りに、その人物の「リソース」を探り当て、後は勝手に治るように仕向けてしまう。また、彼は患者の過去を根掘り葉掘り聞き出したりはしない。インフルエンザに罹った経緯が分かったところで、症状が回復することがないように、患者の歩んで来た生い立ちを知ったところで治癒することなどないからだ。「インフルエンザと心の病気を一緒にするな!」と思われるかも知れないが、エリクソンのやり方を見ていると、あの「ゆったりした椅子に座って自分の過去を明け透けに話す」という途轍もなく長い時間を要するセラピーが、如何に無意味かを思い知らされる。
 一人一人を前にし、文字通り十人十色のリソースの発掘をするエリクソンは、従って、一つの「理論」も「技法」も作らなかった、いや、作り様がなかったし、また必要もなかった。彼は、「Procrustesの寝台」*1の譬え話を好んだそうだ。だが、なんとかして彼のやっていることを整理しようと、弟子達が「理論」のようなものを見い出している。この内、エリクソンが患者と話しているビデオを詳しく観察した結果「NLP」(神経言語プログラム)というジャンルが出来上がった。NLPはしかし、目の動きで主導感覚を一瞬で知る以外はあまり注目すべきことはないそうだ。
 さて、次の二つの文章の違いは何だろうか。「今日は曇りだ。」「こんにちは。」。前者には真偽があるが、後者にはない。「こんにちは」というのは挨拶をする“行為”であって、真偽の判断とは無縁だ。ここにあるのは、成否のみである。例えば、テレビ業界などで夜、「こんばんは」と挨拶するのは“否”であり、「おはよう」だと“成”である。しかし、親戚に会いに行って、夜「おはよう」というのは“否”である。また「お前は今日からターザン二号だ」と命名するのもこのタイプに属する。この命名行為が成功すれば、ある人物はその時から「ターザン二号」となるが、失敗すればたわごとで終わる。
 前者について考えてゆく、つまり文章や言葉の真偽を問題にするのが、分析哲学(論理学)であり、記号論である。これらの学問にはただ単に、認識があるのみだ。一方後者のような言語を「指令語」と言う。指令語は何らかの変化をもたらす力を持っている。裁判官の判決が、分かりやすい例だろう。被告人席に立っている人間そのものは物質的に変わったりはしないが、「死刑」の判決が下った瞬間に、彼は「被告人」から「死刑囚」と成る。このような変化を「身体の非物体的変形」と呼んだりする。*2
 フロイトは、「認識」に重きを置いた精神科医だった。だから、病院の因果関係、原因さえ分かれば治癒するという考え方に基づき、患者が病気になった原因を知ることに心血を注ぐ。(その結果、殆どの場合、治すことができなかった‥‥。)一方、指令語が行為であり、変化を導く力を持つ言葉であることに最も自覚的だったのがエリクソンだと言える。
 エリクソンの治療を一つ見てみよう。ヘビースモーカーを一回の会議をやるだけで、禁煙させてしまったというお話。俄に信じがたいし、一体どうして禁煙が可能になったのか分かりにくい。ただ単に「へぇ〜」で済ますとそこでおしまいなので、彼の戦略を詳しくみてみる必要がある。以下は、今はもう消滅したある掲示板からの引用。

「 会議の際、エリクソンはその男性に自由に煙草を吸ってよいといい、ことある毎に煙草を勧め、『どうしたんです? お吸いにならないんですか』と誘いかける。ところが男性が煙草を取り出し、吸おうとするや否や、参加者たちが必ず彼に質問を浴びせかけ、始まりかけた喫煙を妨害し、彼は終始、煙草を吸う代わりに質問への応答に追われ続ける。
 会議が終わったあと、エリクソンが『どうしたんです? 一本も吸わなかったじゃないですか?』と問いかけると、ヘビースモーカーだった彼は『吸いたくなかったんです』と答えたという。」

 なぜスモーカーは「吸いたくなかった」と言ったのか? 実はこれ、エリクソンの戦略によってこう“言わされている”のだ。これ以外の言葉が出て来ないよう、知らない内に喫煙者は「吸いたくなかった」という言わば出口に向わされていた。ここでエリクソンは「ダブルバインド(二重拘束)」という技法を使っている。「技法」というとおかしいかも知れない。なぜならこの語は、ベイトソンの『精神の生態学』に分裂病の原因となる状態として登場するのだから。これは相反する命令が同時に発せられたとき、身動きが出来なくなってしまうことを言う。例えばある母親が子に言う。「さぁ、ハグしてちょうだい。」子どもはそれに応えようとハグしようとする。と、その瞬間母親が身を強ばらせる。「〜しなさい」と「〜するな」という遂行不可能な要求で、ある人間を身動きが取れないようにしてしまう、これがダブルバインドである。そして、こういうことが頻繁に起きると、子は分裂病になってしまうそうだ。

精神の生態学

精神の生態学

 エリクソンはスモーカー氏を二重拘束した。一方で「吸って良いですよ」とか「吸わないんですか?」と喫煙を認めておきながら、質問という形で喫煙を「禁止」「阻害」しているのだ。だが、スモーカー氏は質問に答えているだけであって、タバコを吸うのを邪魔されていることに気付きようがない。なぜなら、「吸いなさい」は言表行為の次元で、「吸うな」は態度や行動の次元で示されているためだ。会議が終わっても、彼には「吸わせてもらえなかった」という記憶がない。そして最後、自ら発する「吸いたくなかったんです」の一言で彼の禁煙は完了する、という訳だ。エリクソンダブルバインドを肯定的に利用してしまうという、とんでもない柔軟な頭を持っているのだ。
 彼はまた、患者の言葉を決して否定しない。患者が「私みたいなバカいません」と言えば、「えぇ、かなり酷いバカですね」と相手の言葉を全て受け入れる。そしてその上で変化に導いて行く。例えば、「どんな阿呆な君でも、このくらいのことなら出来るでしょ」という具合に少しずつ課題を与えてやるのだ。このやり方でエリクソンは、あるどうしようもない、みすぼらしい男を大学にまで入れ、結婚までさせてしまった。
 心理療法家になりたいとかそういう願望は皆無だが、エリクソンの数々の事例から、考え方の転換のようなものを学ぶことが出来る。今後も授業がとっても楽しみだ。授業中、何か発見や驚きがあったらまたここに書くかも知れないので乞うご期待。

*1:Procrustesとは、ギリシャ神話に登場するある宿屋の主人。客の身体が大きすぎてベッドからはみだすと足を切ってしまう。一方小さいと無理矢理に身体を引き延ばしてしまう。

*2:この辺りに関しては、『現代思想』2004年3月号 特集:死刑を考える(青土社)の、澤野雅樹「死刑をめぐる幾つかのパラドクス」やドゥルーズガタリ千のプラトー』の4章「言語学公準」を参照。

千のプラトー―資本主義と分裂症

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