成瀬巳喜男監督『乱れる』〜粗筋


 成瀬巳喜男監督、『乱れる』(1964年)。

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凄い作品。震えと痛みが、胸から喉の辺りに波のように打ち寄せたり引いたりする。自分を突き刺したシーンを思い浮かべると目を開けるのも閉じるのもままならなくなり、クラクラしてくる。感情そのものがかき乱されてしまう。文字通り絶句してしまう映画。凄い。悲劇。主演の高峰秀子が何よりも凄い。彼女のインタビューが、『キネマ旬報』2005年9月上旬号に掲載されている。俄高峰秀子ファンの私でも十分楽しめる内容。メディアとの接触を断っていらっしゃる方なので、これは相当貴重なものだと思う。
 


 高峰秀子演ずる礼子が「森田屋酒店」に嫁いだのは十八歳の時のこと。戦争に後押しされるかのようにして結婚した二人の生活は、夫の戦死によってたった半年で終わってしまう。戦死の報せが届いたその日に、酒店も爆撃で破壊されるが、礼子は義父にノウハウを教わりながら、独りで店を再建してみせる。やがて義父は亡くなり、亡き夫の妹二人も嫁いでいった。彼女は配達店員を雇い、独りで店を切り盛りしながら主婦業をもこなし、義母しずと末っ子で次男坊の幸司(加山雄三)を養う。だがこの幸司が曲者だ。大学を出て就職するも、東京への転勤が決まると半年で仕事を辞め、以来、二五にもなるくせに店もろくに手伝わずに酒・麻雀・パチンコ・女遊びに惚けてばかり。挙げ句の果てには警察沙汰も起こす――それも一度だけでなく三度も――有り様。7歳の時から彼を見ている礼子はしかし、憎めないこの義弟を懐広く、優しく世話をしてやる。

 さて、戦後も二十年近く経ち高度成長期を迎えると、小都市清水にも「スーパーマーケット」という小売店にとっての強敵が現れる。商店街に進出した「マーケット」の商品のあまりの安さに、個人商店は太刀打ちできない。そこへ追い討ちをかけるように、開店一周年記念とやらで全品半額セールなんというものをやり始めた。ある時、幸司がバーのカウンターで呑んだくれていると、テーブル席の方でスーパーの経営者たちが、女の子たちに「ゆで卵早食い競争」をやらせようとしていた。当時の物価はよく分からないが、この映画に出てくる会話で、7万の月給取りが「なかなか良い」とされている。一方、卵の値段は小売店では一個十一円。当時としては、卵は「高級」とまでは行かなくとも、そう大量に買い込めるものではなかっただろう。だが、マーケットのセールでは一個五円。経営者たちは500円出して100個の卵を買い、バーの女たちに競わせ、勝った者には2000円をやると言う。幸司がそんな「遊び」はやめろと口を出し、以前この競争に参加したことのある女も、卵の食べ過ぎでどんな酷い目あったか愚痴をこぼす。にも関わらず、女たちは、ゆで卵を口に詰め込みまくる。酔っぱらっていたせいもあるだろうが、こんな「遊び」など許容しがたい幸司は、ついつい手を出してしまう。翌日、酒屋に電話がかかって来る。警察からの連絡だ。しかし礼子は義母を心配させまいと、幸司が昨晩戻らなかった理由を「組合の集まりがあったから、帰りに麻雀でもしてたんでしょう」と言って切り抜け、「集金へ行く」と嘘をついて警察に向った。帰り道、礼子は幸司を諭すが、「ねーさんにはほんっとカンシャしてます」なんて半分茶化すような返事ばかり。ある晩など、幸司の帰りを遅くまでまっていた礼子に対し、「だいたい、ねーさんみたいのがめずらしいんだよ」と義姉を「珍品、骨董品」呼ばわり。

 ところで、卵の値段やマーケットの経営者たちの羽振りの良さからも分かるように、この一年、商店街の小売店店主たちは悲鳴を上げていた。そんな中、食料品店の店主は、もう一軒スーパーが出来るという噂を聞いただけで将来を悲観し、家族を残して呆気無く自殺してしまう。妻は言う。「スーパーがこの人殺したんですよ!」また、単純に値段だけを比較する客をスーパーに取られながらも、昔ながらの客を大事にしながら日々働く礼子も、戦時と同じように時代の波に否応なしに押し流される。森田屋の立地条件の良さに目をつけた長女の旦那が、酒店を潰してスーパーにしようと目論み始めたのだ。まずは長女(草笛光子:『女の座』の独身の生け花の先生、『女の中にいる他人』の殺された女にアパートを貸していた人)が、スーパーのことなどおくびにも出さず、礼子に再婚を勧める。だが、いくら森田家にとっての他人とは言えども、十八年間亡き夫の遺志を継ぎ、我を忘れて店を経営して来た礼子は、心乱すことなく断る。将来的に店を継ぐことを期待されている幸司は、礼子を役員として会社を設立するのであれば、という条件付きで計画に賛同する。が、優柔不断な義母は、エゴや「赤の他人」である礼子に対する不信感をむき出しにする娘たちを前にオロオロするばかり。

 ※注意:以下は一種のネタバレであるので、観る予定のある方は読まない方が良いかもしれない。だが個人的には、粗筋を知っていることがこの映画を観る上での障害になるとは全く思わない。



 ある日、店に若い女性がやってきた。外から中を覗き込んでいる。「こうちゃん」が彼女の家に忘れた腕時計を返しに来たのだ。幸司が普段外で何をやっているのか、身を固める気があるのかを探る良いチャンスだと思った礼子は、彼女を喫茶店に誘い、話を聞く。その日の夜遅く、幸司が帰宅すると礼子はその時計を見せ、「あんな女はやめておきなさい」と忠告しながら、そもそも結婚してこの店を継ぐ気はちゃんとあるのかと、いつもよりきつく問いただす。「あの女がいたから東京行かなかったのね?」「幸司さん、本当に好きなの?」と問う礼子に「あぁ、そうだよ」とぶっきらぼうに答える幸司。だが、この一見いつもと変わらぬ小言に、今まで堪えるに堪えて来た幸司は、遂に秘めていた義理姉への想いを打ち明けてしまう。「おれはここにいたかったんだ。」「姉さんの傍にいたかったんだ。姉さんのことが好きだったんだ。」突然の、それも決して受け入れてはならない告白に「いや。やめて!」と叫ぶ礼子。だが幸司はやめない。「おれはずっと昔から姉さんのことが好きだったんだよ。」「卑怯者でもぐうたらでもいいんだ。おれはただ姉さんの傍にいたかったんだ。」“乱れる”礼子は、「もう二度とこの話はしないでちょうだい」と、義姉としての立場を必死に取り戻しながらその場を切り抜ける。一方、幸司は外へ飛び出してしまう。

 今までためていた気持ちを一気に出し切って逆にスッキリしたためか、幸司はその後、誰もが茶化す程よく働くようになった。やがて、小売店に将来はないと考える配達店員は辞めてしまい、礼子と幸司が二人だけで店を回すようになって行く。今まで通り、自分の気持ちを誰にも悟られないよう振る舞う幸司だが、愛の告白の債務者となった礼子の方は全く落ち着かない。また、そんな礼子の気持ちが行為に表れるとなると、幸司も戸惑わずにはいられない。雨の中の配達を終えて店へ入って来た幸司のびしょぬれのレインコートを、幸司の前に立って一つ一つボタンを外してやり脱がせようとする礼子。思わぬ身体の接近にボタンを外す礼子を見つめる幸司。その視線に気付いた礼子は、思わず身を引き離す。店の電話が鳴り、別の方向から駆け寄る二人。余りのタイミングの良さに、二人の手が同時に受話器に触れようとする。今までだったらなんともなかったはずの手と手の接触を恐れ、こわばる身体。呼び鈴は止まる。

 永遠に閉ざされていたはずの幸司の気持ちを、言うなれば自分の言葉でこじ開けてしまった礼子はついに、故郷の兄の元へ帰る決心をする。森田家の女たちには、幸司の言葉を借りて、自分は今まで自分を犠牲にして来たのだと、また、自分がいなくなり幸司がスーパーを経営すればいいと提案し、更には、実は好きな人もいたのだと言い、その日の内に、少ない荷物を鞄に詰め、旅立つ。荷物をまとめる彼女に幸司は「嘘を言え」と詰め寄る。が、礼子は言う。「私は十八年を犠牲にして来たんじゃない、生きて来たのよ。あなたの言うように、強情にね。」そして礼子は、自分を犠牲にして来たと言うのは嘘だが、好きな人がいるのは本当で、誰かと言えばそれは、亡き夫だと言う。禁断の欲望を封じ込めるかのようにして、嘘に嘘が重ねられる。

 逃げるようにして清水を発つ礼子。だが、車内で腰をおろし、ほっと一息つく彼女の目に入って来たのは幸司の姿だった。驚く礼子に「送ってくよ」と言いながらみかんと雑誌を突き出す幸司。配達用のバイクを勝手に売ってカネを作った彼は、礼子への土産まで用意していた。長い列車の旅の過程で、客の配置が変わる毎に彼の座席は徐々に礼子へと近づいていく。やがて客は減り、ボックス席に向かい合って坐る二人。正面で眠りにつく幸司を見つめる礼子の眼には涙が溢れ出す。それに気付いた幸司はついに、彼女の隣の席へ身を移す。意を決した礼子は言う。「次の駅で降りましょう。」下車した二人は、山間の温泉街へ向かう――これがどんな悲劇を惹き起こすかも知らずに‥‥。清水から遠く離れたことに安心したのか、礼子はバスの中で、初めて自分の気持ちを吐露する。「あたしだって女よ。幸司さんに『好きだ』って言われたとき、嬉しかったわ。」義理の姉弟という関係がほつれ始める――。