ヤモリ=家守? 

 本日の午後三時過ぎ、バイトから帰宅すると、玄関先にフタを閉じず、荷物がはみだしたままだらしなく放置してあったスーツケースの縁を、茶色の細長い物体がクネチョロと動くのが見えた。「ぎゃー、ぎゃー、ぎゃー」と三回叫び、思わず外へ飛び出す。玄関の外で、泣きそうになりながら、「あー、どうしよう、どうしよう。ちょっとスーツケースんなか入っていっちゃったよ。あーもー。死にたい。だって、玄関にあんなのいて、どうやって家に入ればいい訳?」心拍数は無駄に高まり、震える身体。鍵を忘れたわけでもないのに、春風の吹き荒れるなかぽつねんと佇み、恐怖と惨めさでちびりそう。「ヤモリのせいでおうちへ入れません」なんて、こんにゃろ。ぬぁーにが「家守」だよ。
 しかし怖いと同時に、家に入れないのが悔しくて、勇気を振り絞って扉をあけ、疾風となって玄関を通過。荷物をテーブルの上に放り投げ、地下にいた父の元へ駆け付ける。突然だが、言語とは全てが指令語である。こういう時、「ヤモリ捕って」などと言う必要などない。緊迫した表情と息遣いで、「玄関にヤモリがいる。スーツケースん中!」これで十分通じる。ドタバタと騒ぐ私を前に、重そうな腰を上げる父。少しでもヤモリを見る可能性を減らそうと、食卓にへばりつく私に、玄関の方から「スーツケースの中なんて、いないぞ」と父が言うので、おそるおそる玄関に向ってみると、「あっ! いた。」「ぎぃぇーーーー! 出して、出して! 外!」叫びながら走り逃げる。あの姿を見ることそれ自体が、恐怖なのだ。気持ち悪いのは言うまでもないが、そういう問題以前に、心底力のこもった「いぃいぃぃいいー、ヤダ」なのである。
 だというのに、「えー、ヤモリって可愛いじゃん」とキチガイ地味たことを言う友人が信じられないことに何人かいる。そんな狂人に、「ヤモリ嫌い」とこれ以上ないまでにスッキリ明快に言うと、「えー? どーしてー?」と返ってくる。どうしてもくそもない。嫌いなもんは嫌いだ。歯をくいしばった「いぃいぃぃいいー、ヤダ」なのだ。
 とは言え、自分が好きなものを「嫌い」と明言されると、「どうして?」と問いたくなるのも分からなくはない。私もたまに、この手の、ただ単にお互いを疲れさせるだけに終わる虚しい問いを突き付けてしまうことがある。例えば、「ビール嫌い」なんて言われると、無思考に「へー、なんでー?」と言ってしまう。そう、これは多分「言って」いるのであって、「尋ねて」いるのではない。単に、「ビールが嫌い」という人を受け入れるのを拒否しているのだ。(こういった意味でも、やはり「言語は指令語」なのだろう。)となると、理由無き理由を問うよりも、「じゃぁ、チューハイはどう?」「炭酸は大丈夫なの?」「苦めの酒が嫌い? 甘いの好き?」などと「嫌い」と「好き」の範囲を広めたり狭めてみたりする方が良いかも知れない。現にビールを好まない人に、グレナデンシロップを少しだけ垂らした「甘めのビール」を出すと、「美味しい」「ビールなのに呑みやすい」と喜ばれたりする。
 なにはともあれ、私はヤモリとかそういった類いのもの、爬虫類や両生類は全部嫌いだ。「爬虫類」なんて字面を見ただけで鳥肌の波に襲われる。本当にお願いします、ヤモリ様、私の目の前にもう二度と現われないで下さい。