「見る」こと、「出会う」こと

■空振りする援助
 絶対にやってはならないし、実現することもないし、提案するだけで後ろから誰かに刺されることになるかもしれないが、一度だけやってみたい実験がある。国際規模の食糧支援を三日ほど、完全にストップさせるのだ。結果の予想;殆ど何も変わらない。
 もちろん、世界中に飢餓が存在し、今この瞬間にだって食物がないことが原因で死に瀕している人が大勢いる*1ということは知っている。だが一方で、(食糧に限らず)国際援助というものが時として、われわれが想像する以上に空回りをしていることも否めないだろう。例えばアメリカには、対外援助のための食糧は全て純国産品でなくてはならないとする「食糧援助プログラムPL480号」という法律があり、国際援助はダイレクトに国内企業の利益に結びつくようになっている*2アメリカでは「人道支援」はすっかりビジネスの一つとなっていて、「国際援助」の名の下に私服を肥やす企業や、それらと結びついた腹黒い政治家が存在するのだ。従って、もしこの実験が実際に行われたとしたら、一番困るのは、貧困や飢餓にあえぐ人びとではなく、アメリカ企業や政治家なのかもしれない。日本のODA(政府開発援助)も似たり寄ったりだ。例えば日本政府は、内戦後の政治体制が混乱し、日本からの援助による農薬を管理・使用しきれないとして、「農薬はこれ以上もういりません」と表明したモザンビークに、更に農薬を送りつけた。その結果、捌ききれない大量の農薬が現地で放置され、一部は容器から漏れだし、土壌を汚染しているケースも確認されているという*3。また、とあるアフリカの国が、送られて来た援助食糧が多過ぎて倉庫代が高くつき、財政が圧迫され困り果ててしまったというようなことも起きている*4。他にも、日本で収集されサマワの病院に送られた毛布が、汚れていたりして使い物にならず、ゴミの山と化しているという事態も報告されている*5。毛布の山を前に地元の評議会議員の中年女性は、「日本からはもっとまともな、有用な援助を期待していた」、「これらの支援の毛布をみたとき、我々は侮辱されているかと思った」と困惑と怒りの混じり合ったような表情を浮かべているではないか。
 国際援助の空振りの例を挙げていけば、キリがない。もちろん、援助の全てが空回りしていると主張するつもりは毛頭ない。だが一体どうして、「いらない」と主張している国に毒薬ともなりうる農薬を大量に送り、食糧がほんの少し足りないと訴えた国に過剰な食糧を送り、毛布が足りないサマワの市民に薄汚れた毛布を送るなどといった、結果として嫌がらせにしかなっていないような「人道支援」が少なからず存在するのだろうか。



■罪悪感解消装置としての寄付
 「豊かな」社会に住んでいれば誰しも、一度は、飢餓に襲われた人びとの惨状を各種メディアを通じて目にしたことがあるだろう。また、これ以上ないまでに痩せ細った黒人の子どもが、悲痛な視線を投げかけてくるという構図の写真も見たことがあるだろう。そして、その手の映像や写真を目にすることができるという事実はそのまま、われわれが如何に豊かで恵まれた環境にいるかを物語っている。快適な環境、有り余る選択肢に満ちた社会にいる自分と、もはや「ハラが減った」と訴える力さえもない程に痩せ細り、衰弱し、死を待つことしか残されていない罪もない人びと。その途方も無いギャップに心を痛める人は少なからずいることだろう。「あぁ、なんてことだ。自分は今日、満腹になるまで飯を喰ったのにも関わらず、デザートまで食べてしまった。考えてみれば、自分の住む豊かな社会には、ストレスから過食した上にそれを吐き出す人もいるではないか。それに、肥満などという贅沢な病気も蔓延している。われわれは恵まれ過ぎる程恵まれているというのに、彼らは何も口にすることなく死に絶えていくなんて。あぁ…」などといった具合に、なけなしの良心から絞り出した罪悪感に浸る。そしてこういった〈善良〉な市民が抱く、罪悪感を解消するのにうってつけの装置として機能するのが、各種の国際援助団体への寄付である。
 実際、痩せ細った子どもたちなどの悲惨な写真は、宗教団体の資金集めにも利用されていると言われる程、人びとの財布の紐を緩める効果がある。日本でもかつて1980年代後半に、エチオピアを中心とする地域での飢餓問題に人びとの多大な関心が寄せられ、大量の寄付金が集まったことがあった*6ようだが、このことに目を付けたある宗教団体は、悲惨な状況に置かれた痩せこけた人びとの写真を片手に、援助団体の名を騙り寄付金を集めていたという*7。現在の日本での現状は詳しくは分からないが、アメリカの国際的支援組織は、この手の写真を使った「宣伝」次第では、相当の資金を集めることができるそうだ*8。本当に飢餓に苦しみ、死んでいく人びとがいるということを認めないのでは決してない。だが時として、食糧支援が先に述べた通り、ちぐはぐな状況を生み出すことがあるということ、そして善かれと思ってした寄付金が得体の知れない団体に利益をもたらしうるということもまた、認めなくてはならない事実だろう。



■「見る」こと
 至極当たり前のことだが、何かを「与える」だとか、誰かを「助ける」といった行為は相手を必要とする。相手がいないのにも関わらず、虚空に向かって何かを差し出す人がいたら、その人は単なるおばかさん、もしくはゴミを捨てているものだとみなされるだろう。では、様々な援助活動に対する寄付といった人びとの〈善意〉による行いには、果たして相手がいるのだろうか。〈善意〉に溢れる人たちは、漠然と、「困っている人たちが助かる活動のためだ」と思うことで、その場をやり過ごしてはいないだろうか。当て逃げならぬ、寄付逃げとでも言おうか、こうして寄付を行った〈善良〉な市民たちは「ちょっとイイことした自分、素敵」と微笑み、一時的に罪悪感から解放されると同時に、自分のおかれた豊かな社会に正当性を与える。正直なところこれは、世間一般に対する批判というよりは、かつての自分自身を思い起こし、描写しただけだと言わなくてはならないのかもしれない。例えば、盲目的に教師の言うことを信じていた小学生のときは、「サイマツタスケアイ」が何たるかも知らないまま、そのシーズンになると学校の雰囲気に飲み込まれるようにして、職員室にある箱にお金を入れていた。そして自分は〈善い〉行いをしたのだと思い込んでいたものだ。何たる偽善。また、ユニセフから毎年「心ばかりの感謝の印」として、自分の名前と住所が印刷された「パーソナルラベル」が送られてくるのだが、それはつまり、今以上にお金もしくは罪悪感を持っていたその昔、ユニセフにお金を振り込んだことがあったことを物語っている。そして(記憶にはないが)恐らくは、「ユニセフから感謝されるような行いをしたんだ」とでも思っていたに違いない。何たる醜態‥‥。
 勘違いしてほしくないのだが、私は寄付をする人たちを全面的に敵にまわそうとしているのではない。寄付を〈善い〉ことだと信じて止まない人たち――かつての自分、そして寄付金を集める活動に従事する人たちをも含む――に、ちょっとした疑問を呈してみたいと思っているだけだ。「〈善い〉ことをした」と思ったその瞬間、罪悪感を同時に決算してはいないだろうか、と。私からしてみれば、寄付が〈善い〉ことであると思っている人、また、そうでないと思いたくてもどこかでそう思ってしまう人は、結局のところ、自分の良心から分泌された罪悪感をなんとかして消し去ろうと足掻いているに過ぎない。なぜなら、先ほども述べたように人を「助け」たり、人に何かを「与え」たりするには相手が必要であり、その相手を前にして実際に行為に及んだ者は、決して自分が〈善い〉ことをしたなどという意識を持たないと思うからである。だから私は、街角で寄付をつのる人が、寄付金を入れた人に見せる過剰なまでの笑顔とお辞儀には、どうしても胡散臭さを感じざるを得ない。過ぎた感謝は、感謝しないよりもたちが悪い。
 例えば、身体のバランスを崩し、転倒しそうになった人を「見た」瞬間、多くの人は殆ど何も考えることなく、手を差し伸ばすのではないだろうか。そして彼が転倒するのを防いだ瞬間、「あぁ、〈善い〉ことするなぁ、自分」などとほくそ笑んだりはしない。なぜなら転びそうになった人物を「助ける」という行為に及ぶ際に、そこには善し悪しの基準など存在しないからだ。ただ単に、危険な目に遭遇する人を「見た」だけのことだ。ところで、ここで言う「見る」とは、ただ単に物理的に視界に事物の姿が入ってくることを意味するのではなく、「会う」や「経験する」、「調べる」、「分かる」、「知る」または「考える」といった広い意味をも合わせもつ、英語で言うところの“see”のことである。(以下、この文章において「見る」という単語が登場する場合、特に断りが無い限り“see”の方を意味する。)ある人が転びそうになっているという状況を前にして、人びとはそれぞれ異なった反応――手を延ばすなり、拱手傍観するなり――をすることだろう。前者は正に、転びそうになっている人を「見た」のであり、後者は「見なかった」のだと言うことは出来ないだろうか。国際的な援助活動を行う団体などへ寄付をする際、われわれは果たして、相手を「見て」いるのだろうか。無論、特定の団体への寄付は多くの場合、その団体に全面的な信頼をおいているからこその寄付であり、寄付する者自身が助けを必要とする相手を「見る」ことができるか否かなど、どうでもよいのかもしれない。問題は誰かが「助かる」ということなのだから。
 だが果たして、相手を「見る」ことなしに「助ける」という行為は成り立ちうるのだろうか。上述してきたように、否である。従って、そういった人たちの行いはやはり、罪悪感、もしくは強烈な同情心ゆえの行いであると言わざるを得ない。だがもちろん、こういった種の寄付活動を完全に否定していたら、各種支援団体の資金はあっという間に枯渇してしまい、救われる可能性があった人びとも次々に死に絶えていってしまうことだろう。だから、寄付などの〈善行〉に勤しむ人たちは、このまま放っておくのが一番かもしれない。間違っても彼らに向かって、「あなた、寄付をすることで罪悪感をなくして、結局は自己満足してるだけでしょ」などと言ってはならない。熱心であればある程逆切れさせてしまう可能性が高いし、純粋であればある程戸惑わせてしまうだけだろう。その手の人びとは放置しておくことにして、誰かを行為の相手として「見る」ということが一体どのようなことなのかを考えてみることにしたい。そしてそのことで、何ゆえ国際援助が思うような効果をなかなか果たせないでいるのかを、探っていくことにする。



■大津波を巡って
 2004年12月26日、インドネシア西部のスマトラ島沖で生じた地震の影響で大規模な津波が発生し、スリランカやインド、タイ、マレーシアなどインド洋沿岸諸国を襲った*9。死者の数は16万近く、そして行方不明者の数は3万人近くにも達するとされており*10、自然災害としては史上最悪の途方もない被害をもたらした。これに対し各国政府は、津波発生の報を受けるとすぐさま、被災国への援助金の拠出を「表明」した。金額の単位は当初は百万ドル単位であったが次第にゼロの数が増えていき、各国は他国の援助額を横目で見ながら、「我こそが!」とでも言わんばかりに金額を増やしていくという、ポトラッチとでも呼びたくなるような援助合戦状態に陥った。この援助額、もしくはGDP国内総生産)比における支援金額の割合のトップを狙う争いにおいてはもはや、「援助」の相手国などお構いなしだ。「アジアで頼りになるのは日本」ということを誇示しようと、被害状況を把握することなくタイ政府に巨額の資金援助を申し出た日本政府は、タイ政府から「カネはもう結構です。そのカネは他国へまわして下さい」といわれてしまった*11程である。(実は、タイ政府の側にも、国際社会にアピールしたいことがあったのだが。)
 今回の津波はその規模ゆえに世界中に衝撃をもたらした。また、アジア地域での災害であるのにも関わらずスウェーデンやドイツを始めとする多くの西欧人の命――無論、全体の死者数からすれば微々たる割合でしかないが――を飲み込んだこともあり、西欧諸国からの支援に対する関心は非常に高い。だが結局のところ、どの国も、被災した国々における自国のイメージや影響力の向上、国際社会もしくはアジアにおける威信の誇示のために、津波という大災害を最大限に利用せんと悪あがきしているに過ぎない。例えば、巨額の資金提供を「表明」したオーストラリアやドイツ、日本、そして被災国であるにも関わらず、他国の政府どころか国外のNGO(非政府組織)の支援まで断り、支援国としての存在をアピールするインドには、国連の常任理事国入りという大きな目標がある*12。またどの国も、世界中の注目が集まるなか、巨額の資金提供を「表明」すれば、国際社会における存在意義をアピールすることができる。皮肉なことに、被害が大きければ大きい程、各国政府の下心も膨らんでしまうものなのだ。
 だが、注意しなければならないのは、支援金の「表明」は実際にその金額のカネが被災国や国連に支払われたということを意味しないという点だ。今回の援助合戦の結果、各国政府が「表明」した援助金の総額は50億ドル*13という、これまた途方も無い額となったが、例えば、3億5千万ドルという支援金を出すことを「表明」したアメリカ政府がひとまず提供することになっているのは、7700万ドル*14である。その後、順次支払われていけば良いのだが、2003年のイラン南東部地震の際の各国の支援「表明」額は総額が11億ドルであったにも関わらず、現在までに実際に支払われたとされるのは、1750万ドルに過ぎない*15アメリカに限らず各国政府の援助金額は実際のところ、「表明」された額の半分から6割程度になることが殆どだという。そしてこの事実を前に、支援を「表明」された国々は、まさか援助国を嘘つき呼ばわりしてカネを取り立てる訳にもゆかず、ただ泣き寝入りするしかないのが現状だ*16



■誰も「見ない」援助
 もちろん、各国からの水や食糧、医薬品などが被災した人たちの生命維持に役立っていることを否定するつもりは毛頭ない。だが、津波の被災国を取り囲む各国政府の「援助」は、想像することさえ躊躇してしまう程の悲しみや苦しみに明け暮れる現地の人びとを、「助ける」ためのものでは決してない。なぜなら、各国による援助合戦においては、被災者を「見る」という視点が完全に抜け落ちているからだ。相手を「見る」ことなしに行われた何らかの行為を「助け」と呼ぶことはできない。それどころか、「助ける」という行為は、受け手が自分に対して行われた行為を「助けてもらった」と評価することで、初めて、事後的に成立するのではないだろうか。いずれにせよ、津波被害を巡る各国の「援助」合戦は、国家という巨大かつ強固なエゴイズムをもたげさせずにはいられない。このどうにもしようのない事実を前にすると、いっそのこと、ジョン・レノンの「イマジン」でも唄いながら酒でも呑み、全てを忘却してしまいたくなるが、それを実行に移す前にもう少し思考を巡らせてみたい。



■他者はどこにいるのか?
 国際援助はその規模ゆえに、その受け手となる人びとを「見る」というのはほぼ不可能である。だが、われわれは日常生活に於いても人を「見る」ということがなかなかできないでいるのではないだろうか。例えばある授業の先生の体験談によると、彼が松葉杖を付きながら混雑する電車に乗り込んだ際、「優先席」なるものの前に立ったが、誰一人として席を譲ってくれる者はいなかったという。「優先席」などというものがわざわざ設けられている――全席を「優先席」にした線まである。こうなってしまうともはや、「優先」という言葉は意味をなさない――という事実だけで、絶望的な気分になってしまうが、自分が座っていたいとひたすら願う人、つまり、「優先席」という場において、自分が最も「優先」されてしまっている人にとって、彼の姿は正に「見えて」いない。では、誰かを「見る」――「見る」という語の幅広い意味を考慮した上で換言すれば、他者に「出会う」――とはいったいどのような現象なのだろうか。
 ルネ・シェレール古代ギリシャから現代に至るまでの「歓待」について記した書物の中で、16世紀のスペインによるアステカ帝国の殲滅について触れながら、フッサールの「他者は私の中で構成される」という言葉について以下のように説明している。

 他者は他者として構成されないかぎり存在しない。他者との対面、相互性、交換が存在するためには、“私の中に”こうした出会いのためのア・プリオリ、受け入れの形式、歓待の構造が作られていることが必要なのだ。他我が存在するためには、まず自我を想定しなければならない。よしんば、この自我が十全に存在し、おのれを理解するようになるにはその他者を必要とするにせよ、このことに変わりはない。そして、他者の視点が存在するためには、私がそれを私の視点とは異なった視点として構成すること、そしてその二つの視点が交差し、出会って、同一の世界を形成することが必要である。こうした交差なくしては、他者はただ不在であるにすぎない。他者性の空虚、あるいは、支配的な唯一の視点の中への他者性の吸収があるにすぎない。*17

 ここにおいて「構成する」とは「私から他者への関係が対面の関係となり、私と他者とが対話者となるためには、私が現在いる場所から他者のいる場所へとある種の転位が生じなければならないということだ。すなわち、知覚された他者の身体が、私がみずから毎瞬間に体験している私の身体の類同物となること、そして、他者が体験して生きている“体験内容”に“内部”から滑り込むことはできないにせよ、私の身体の類同物となった他者の身体に、主体としての存在――物体としての存在ではなく――を私が付与することが必要だということである。かくして私は、他の身体であるこの物体を人間にする。」*18
 要するに、「私」の視界に何者かが飛び込んできても、「私」がそれを他者として構成しない、もしくは「見」ない限り、その何者かは他者たり得ないのだ。そして、私の視点を認めた上で、それとは異なる視点を自ら構成し、その二つの視点が「出会う」、もしくは互いに「見」合うことで世界を共有することがない限り、そこにはただ単に私の一方的なまなざしが存在するに過ぎない。そういった空間においては、誰かに「出会う」ということはあり得ない、換言すれば、そこには他者は存在し得ないのだ。松葉杖をつく人物でもヨレヨレの老人でも何でもいい。「私」がある人物に電車内で席を譲るという場面があるとする。「私」は松葉杖に頼りながら歩かざるを得ない人物や、危なっかしくよぼつく老人をまず知覚する。そして、彼の身になった自分を一瞬で想像し、その不安定さや、辛さを彼と分かち合うその瞬間、つまり「私」の前に他者が出現する瞬間、「私」は席を立ち彼に席を譲り(ここでは正に)、身体の場所が他者と完全に入れ代わる。
 また、シェレールは端的にこうも述べている。「もし私が、他者をその世界において動機づけているものに無知であったり、その世界を受け入れないならば、私はまだ“他者”と出会ったことにはならない」*19と。このように考えるならば、アメリカ大陸の侵略者たちがインディオに「出会った」ことは決してなかったと言わねばならないし、19世紀、絶対的な光――それは絶対的であるがゆえに異なる視点を構成することを許さない――をたずさえて、暗黒の地をくまなく照らして歩いた西洋人の目に映った「未開人」や「野蛮人」が、彼らにとって他者であったことはなかったのではないだろうか。



■「見えない」人たち
 ところで、国際援助とはその名の通り、自国内にではなく、他国に対して行われる援助のことである。となれば、援助する側とされる側の間には物理的な距離が存在する。その距離があたかも存在しないかのようにして、遠くの地における人びとと「出会う」ことができる人もいるのかもしれないが、この距離はわれわれの前に大きく立ちはだかっている。困り果てた人たちを「見る」ことができなければ、何の行動に出ることもできない。援助へのモチベーションなど生まれようがないのだ。テレビの画面に映しだされた映像や、新聞に掲載された写真や記事を視界に入れるだけでなく、「見る」(記事に関していえば「読む」)こと、すなわちメディアの彼方に他者を構成することができる人はそう多くはないのではないだろうか。ましてや、津波の被害を国益に結び付けようと奮闘する政府の役人や政治家たちなど、被災者を「見た」ことなど恐らくないのだろう。政治家などの現地「視」察が殆ど形骸化しているのは言うまでもない。物理的距離ゆえに「見る」ことが難しいというのは、国際援助が空振りに終わる要因の一つと言えるのではないだろうか。
 だが先に述べたように、例え物理的な距離がどれだけ近くとも、他者と「出会え」ないという事実もあり得る。そしてそれは、何も16世紀や19世紀の西洋人に限ったことではない。例えばある日のこと、比較的混雑し合う電車の中で座っていると、突然脛のあたりに傘の先が刺さった。大して痛くはないし、とりたてて騒ぐことでもないが、足に傘が食い込んでいるというのは少々不快であったので、なんとかならぬものかと傘の持ち主を「見よう」として顔を上げて、思わずぎょっとした。そこには、自分が傘を持っていることさえ忘れ去り、目の前のみならず自分の周囲に人がいることすら知覚できなくなっている、携帯電話の小さな画面に文字通り頭を飲み込まれた女性がいたのだ。日本では電車の中を「見」回せばすぐ分かるように、目の前の生身の人間よりもずっと遠くにいる何ものか――時としてそれは、友人などではなく、「出会い」系などとよばれるサイトの向こう側の何ものかであることさえある――に他者を「見出して」いる(気にすっかりなっている)人が大勢いる。
 また、パレスチナ人と彼等の住む地域に食い込んでくるイスラエル人の間を隔てるのは、一枚の壁ないしはフェンスだけである。だが、これだけの近距離で互いに顔を突き合わせているのにも拘らず――いや、常に「見る」ことなくすれ違うのみであるからこそ――、彼等が「出会う」ことは皆無である。イスラエル人の目の前にいるパレスチナ人、そしてパレスチナ人の前にいるイスラエル人は互いにとって他者たり得ない。ここで、絶望的な状況に陥り、暴力の応酬が罷むことのないパレスチナイスラエルの対立の中でうまれた、小さな「出会い」について述べておくことは決して無駄なことではないだろう。



■『プロミス』
 この小さな「出会い」は、1997年から2000年にかけて撮影された『プロミス』というドキュメンタリー映画*20の中でうまれた。この映画には、ヘブライ語アラビア語を流暢に操る、一人のアメリカ系イスラエル人の男性の、「パレスチナ自治区や彼もこれまで訪れたことのなかったヨルダン川西岸のユダヤ人入植地、そして彼が育ったエルサレム近郊への旅」*21をカメラで追いながら、全部で7人のパレスチナ人とイスラエル人の子どもたちに取材をしてゆく様子が描かれている。そして取材を続けていく中で彼は、パレスチナの少年に興味を抱いたイスラエル人の双子の少年たちを、難民キャンプの子どもたちのもとへと連れてゆく。それまで「出会った」ことのなかったイスラエルパレスチナの子どもたちは、たどたどしい英語を頼りにコミュニケーションをとりながら、共に食卓を囲み、何がそんなに楽しいのかと疑問に思ってしまう程小さなことでふざけ合い、笑い、サッカーをして遊び呆ける。彼らが戯れる空間においては、「パレスチナ人」も「イスラエル人」も存在しない。そこにあるのは正に、「出会い」である。だが一日を共に過ごした彼らに、「別れ」がやってくる。互いが住む地域は20分程しか離れていないのにも関わらず、彼らは再び「出会う」ことの困難さを前に涙を流さずにはいられない――――。
 映画の最後に、この「出会い」から2年後の子どもたちのインタビューが流れる。その中の、双子の片割れの「あの時のことは覚えてるけど、今は自分の問題で手いっぱいなんだ」というの言葉を忘れることができない。彼の言葉に、始めはがっかりした。やはり一日ぽっきりの小さな「出会い」ではだめなのか、と。いくら素晴らしい「出会い」を経験しても、日々の生活に追われているうちにその記憶はどんどん風化していってしまうことだろう。だがもし、彼が兵役に就き、「パレスチナ人」を前に銃口を構えたとき、忘却しかかっていた「出会い」を思い出し、目の前の「パレスチナ人」を一人の他者として「見よう」としたなら、などということを夢想するようになってからは、彼の台詞はむしろ輝きを帯びるものとして感じられる。「パレスチナ人」と「イスラエル人」が互いを「見る」ことなく面を突き合わせるとき、互いを憎しみの象徴としてしか認めないでいる限り、彼らが「出会う」ことはありえないだろう。だが『プロミス』は、「イスラエル人」と「パレスチナ人」が「出会う」可能性が、僅かながらもまだ残っていることをわれわれに「見せて」くれているのではないだろうか。私はこの映画に、微弱ながらも大きな可能性を秘めた一筋の光を「見た」ような気がした。



マザー・テレサ
 最後に、貧しき人びとに手を差し伸べ続けた、マザー・テレサについて述べるのは唐突であろうか。経済学に絶対的な信を置く者たちは、マザー・テレサの行いを、「道で死にかかっている人を拾って来て介抱したって、結局数時間で死んでしまうではないか。そんな人たちをわざわざ集めたりすることに一体何の意味があるだろうか。貧困や飢餓を撲滅するには、そんな風にちまちまやるなんて無意味だ。そうではなく、もっと大規模なことをしていかなくてはならない」と批判することがあったという*22。貧困や飢餓、疫病といった現象を数字に還元し、「この国にはX万人もの恵まれない人たちがいる。彼らの全てに温かい食事を供給するには、全部でX・Yドル必要だ。それだけの資金があれば、全員を救うことができるのだ」といった具合に、日々、超-具体的ともいえる数字と格闘する科学者たちにとって、彼女の行いは数字に現れることがない程僅かで微小なものに過ぎず、殆ど意味をなさないように思われるのかもしれない。だが彼女は、目の前にいる全ての貧しき人たちをまさしく、他者として「見る」ことができた、希有な人物なのではないだろうか。もっといえば彼女は、常に積極的に、そして時には自分の身の危険をも厭わず、弱き者たちに「出会おう」とし続けたのではないだろうか。
 他者を「見る」ことなく数字を真理として追い掛ける人びとを意識してか否か分かりかねるが、マザー・テレサは日本での講演で次のように述べている。「この世の中で、私たちはたんなる数ではないと思うことは、すばらしいことです。」*23そして別の講演では、「アメリカやヨーロッパなどの暮らし向きのよいところ」で起きた出来事として、あるビルで死後4、5日たってからシスターに発見された女性がいたが、隣人は誰一人としてその女性の名前を知らなかったという事件を紹介している。そして「彼女はただの数だったのです。みなさまは人が知られず、愛されず、大切にされずに、数として死んでいくことがどんなものか想像おできになるでしょう。これこそ、ひどい飢えであり、大変な貧困で、取りのぞくことがとてもむずかしいものなのです」*24と説く。これは都会で起きたことだと察せられるが、都会の中心にも、世界の周辺国にも同じようにして存在する、名無き死、数(ナンバー)としての死を前に、人びとは数でもって戦いを挑もうとする。ゆえに、国際援助は物資の量や金額といった数字によってその真価が判断されがちであるが、数は誰一人として「助ける」ことはできない。ましてや「表明」されただけに過ぎない金額は、無に等しい。われわれに必要なのはむしろ、数に対する数ではなく、名も無き人を他者として「見る」ことなのではないだろうか。



■小さな「出会い」の大きな可能性
 誰かを「見る」ことは何も、特定の人びとだけに可能な特別な行為ではない。そのことを喚起すべく、マザー・テレサは聴衆に向かってこう呼び掛ける。「目を開いてください。そうすれば見えるでしょう。しばしば、わたしたちは見ていても、見ていないかのようです。さあ、見て、知りましょう。そうすれば、この美しい東京の街にも、美しい日本の国にも、多くの貧しい人びとがいることを知るでしょう。ニューヨークのなかで、ロンドンのなかで、またカルカッタのなかに見られるように。もし富んでいる人びとがいるなら、貧しい人びともいるはずです。そのような人びとがいても、私たちは知らないのです。」*25
 『プロミス』における「出会い」は、パレスチナイスラエルの人口に比べたら消え入るように小さなものでしかない。だがもし、「パレスチナ人」と「イスラエル人」の間に「出会い」の核融合が起きたとしたら、それはパレスチナ問題を解決する大きなエネルギーとなりうるのではないだろうか。本物の核融合を起こすには水素爆弾が一つあれば十分だが、「出会い」の核融合は、小さな「出会い」の連鎖でしか起こせない。どのようにすれば「出会い」の核融合が起きるかというハウツーは恐らく存在しない。だが、『プロミス』のような小規模な映画を作ることで多くの人びとに現状を訴えかけたり、そういった映画を「見」たりすることで、その可能性を増すことはできるのではないだろうか。実際、『プロミス』は映像の持つ可能性を中東和平に生かそうと、あるNPO(非営利組織)によって作られた映画で、3人いる監督の内一人は、「パレスチナに『プロミス』海賊版を拡げていきたい」と述べていた。つい先日のことだが、政治的な対立から生じた台湾と中国の間の隔たりに、一般の人びとの抗しようのない勢いによって、「直行便」というひとつの懸橋が掛かることが決まった*26。同じように、政治家や国家主義者たちによって起きたパレスチナ問題の解決は、パレスチナイスラエルの人びとの「出会い」によって生じる強力なパワーが、政治を揺り動かしていくことで促され得るのではないだろうか。
 また、マザー・テレサが道ばたで死にかけた人を救い、その最期を看取ったところで、確かに飢餓も貧困も疫病も世界からなくなりはしないだろう。だが、金額や物資の数や量のみが先走りがちな空虚な国際援助を前にして、彼女の活動が無意味であると言い切ることは果たして可能なのだろうか。
 大規模な資金や物資による国際支援と、『プロミス』やマザー・テレサの活動にあるような小さな「出会い」。どちらがどれだけ有益なのかは分からない。しかし少なくとも、われわれにできるのが、金銭を投じることだけではないことは確かである。痛んだ己の良心から分泌された罪悪感で苦しむくらいならば、大規模なことはひとまず置いておいて、自分が「見る」ことのできる領域を発「見」することから始めることが重要なのではないだろうか。そして驚いたことに、これまでに述べて来た「見る」と同じようなことを、マザー・テレサも指摘している。「私たちは見ているつもりでも実際は見ていないのです。英語でいいますと、“look”しているんだけれども見(“see”)ない。」*27敬虔なクリスチャンであるマザー・テレサと、ローマ法皇にひざまずく彼女の姿を見て、「逆でないの?」と思ってしまった程カトリックの信仰とは無縁な私が、彼女と同じような「見る」を考えるに至ったのは恐らく偶然ではないし、驚くべきことでもないだろう。これは恐らく、われわれが誰しも、他者と「出会う」ことができるということを物語っているのではないだろうか。
 「見る」こと、「出会う」ことを欲してみること。そして、そこに秘められているであろう、大きな可能性に賭けてみること。それは決して不可能なことではないし、また、いささかも無駄なことではないはずだ。

*1:2004年のWFP(世界食糧計画)のレポートによると、飢餓とそれに関連した原因によって死に至る人は、一日当たり二万四千人にもなるという。http://www.wfp.org/aboutwfp/introduction/overview.html

*2:2004年5月11日、NHK BS-1「ザンビア 食糧援助の内幕」〜アメリカの飢餓ビジネス戦略〜

*3:2002年4月28日、読売新聞「アフリカ南東部のモザンビーク共和国に対し、日本政府が政府開発援助(ODA)で供与した100トンもの農薬が、未使用のまま3年近く現地の港近くのコンテナ内に放置され、一部が容器から漏れ出す事態になっている。援助を担当した外務省は、日本や欧州諸国が過去に供与した援助農薬500トンが内戦後の政府部内の混乱で在庫になっていることを確認しながら、さばききれると一方的に判断してさらに270トン(約5億円相当)の追加援助を実施し、過剰在庫を招いた。高温の環境下での長期保管の危険性を指摘する専門家もいる。発展途上国に対する援助のあり方が改めて問われそうだ。」

*4:2004年5月11日、NHK BS-1「ザンビア 食糧援助の内幕」〜アメリカのメ飢餓ビジネスモ戦略〜

*5:2004年8月2日、TBS「筑紫哲也NEWS23」のレポートによる。このレポートは、自衛隊派遣に伴って行われた日本からのサマワ市民への様々な援助(公的であれ民的であれ)が、殆ど何の役にも立っていないということを、少々恣意的に伝えようとするものだった。なお、毛布集めを行った東京財団は名指しこそしないものの、この報道に対する反論と思われる文章をウェブサイトで公開している。http://www.tkfd.or.jp/news/today/1_20040809_1.shtml

*6:1985年4月3日、朝日新聞「“アフリカ大陸に住む五億人のうち、一億五千万人もの人たちが飢えに直面している”と伝えられたのは一昨年末のことでした。この“南”の惨状に“北”の人びとは大きなショックを受けたのですが、われわれ日本人の反応も、かつてないほどの素早さと広がりを見せました。この半年余りの間、アフリカ救援募金は、朝日新聞読者による約十二億円を含め、前例のないほどの多額に達しました」。

*7:1985年4月9日、朝日新聞「“飢えるアフリカ”への援助活動が全国的に高まっているなかで、“アフリカ救援”の名目で戸別訪問し、募金を強要するなど“救援募金”をめぐるトラブルが目立っている。」苦情が相次いだある団体を追求したところ、ある宗教団体がそのバックに浮かび上がったという。

*8:2004年5月11日、NHK BS-1「ザンビア 食糧援助の内幕」〜アメリカのメ飢餓ビジネスモ戦略〜

*9:2004年12月27日、朝日新聞インドネシア西部のスマトラ島沖で26日午前8時(日本時間同10時)ごろ、強い地震が発生し、大規模な津波スリランカやインド、タイ、マレーシアなどインド洋沿岸諸国を襲った。」

*10:WHO(世界保健機構)のレポート(2005年1月13日更新)によるhttp://www.who.int/hac/crises/international/asia_tsunami/sitrep/16/en/print.html

*11:2005年1月9日、朝日新聞町村外相は8日夜、タイのスラキアット外相とタイ外務省で会談し、スマトラ沖大地震津波の復興支援について意見を交わした。日本が供与を予定していた20億円の無償資金協力について、スラキアット外相は“より被害の大きい国に回してもらった方がいい。資金協力以外の協力は引き続き検討いただきたい”と辞退を表明した。日本政府もタイへの供与を見送る方針を決めた。タイは借款の返済を前倒しするなど経済援助からの自立を進めている。このため、政府は辞退の理由について“もはや無償資金に頼る途上国ではない、という考えがタイ政権内で強まったのではないか”(外務省筋)とみている。」

*12:2005年1月12日、日本経済新聞「豪独日の大口支援上位三か国は、いずれも国連安全保障理事会の新常任理事国の座をうかがう。(中略)新常任理事国候補ではインドも動いた。被災国にもかかわらず、近隣国に救援部隊を派遣し“支援国”の一角と認知された。」

*13:2005年1月19日号『ニューズウィーク日本版』p.25「1月9日には支援表明額が50億ドルを突破した」。

*14:同上、図参照

*15:同上

*16:2005年1月10日放送のNHK-AM「ラジオ夕刊」によると、政府の援助は、約束した金額の半分から6割になるのが相場だそうだ。また、支援が実際に実行されたかどうかを追跡検証するメカニズムはなく、約束の額を催促することは誰にもできない。各国政府にとっては、どれだけ「表明」するかだけが重要なのだ。

*17:ルネ・シェレール『歓待のユートピア』(現代企画室)pp.130〜131

歓待のユートピア―歓待神(ゼウス)礼讃

歓待のユートピア―歓待神(ゼウス)礼讃

*18:同上p.131

*19:同上p.133

*20:日本ではアップリンクスタジオhttp://www.uplink.co.jp/film/promises/index.htmlでたまに上映される。また、アップリンクのサイトには各地の自主上映会の情報が載せられている。なお、予告編は以下のサイトから見られる。http://www.promisesproject.org/index.html#およびhttp://www.uplink.co.jp/film/promises/top.html

*21:『プロミス』イントロダクションよりhttp://www.uplink.co.jp/film/promises/intro_top.html

*22:2005年度「倫理学B」の先生談

*23:マザー・テレサ『生命あるすべてのものに』(講談社新書)p.8

生命あるすべてのものに (講談社現代新書)

生命あるすべてのものに (講談社現代新書)

*24:同上p.51

*25:同上p.20

*26:2005年1月16日、朝日新聞「中国と台湾の航空当局者は15日、マカオで協議し2月9日の春節旧正月)に合わせて、双方の航空会社がそれぞれチャーター便を直接乗り入れることで合意した。」

*27:マザー・テレサ『生命あるすべてのものに』(講談社新書)p.178