大学生活を振り返る vol.1〜フーコー

 テストの課題:フーコーが分析した「一望監視装置」(パノプティコン)とその効果としての「近代的主体」について説明しなはれ。
 テスト対策用に授業の内容をまとめた文章に加筆。参考文献はミシェル・フーコー『監獄の誕生』。2年前、ゼミに入るために、朦朧としながら辛うじて読破した思い出深い本。

監獄の誕生 ― 監視と処罰

監獄の誕生 ― 監視と処罰



 19世紀以降、ヨーロッパにおいて司法装置(処罰システム)の目標が、身体から精神へと変化した。この変化に伴い、肉体を直接傷つける身体刑が消滅し、代わりに「自由」を奪うための監禁刑が登場することとなった。ここに、囚人を拘束しておくための施設として、「監獄」が登場する。イギリスの功利主義ベンサムは、この新しい施設の理想として「一望監視装置」(「パノプティコン」)*1なるものを考案した。この装置を具体的に描写してみよう*2
 円環状の建物の中心に塔が配置されている。この塔には窓が付いているが、鎧戸や壁などで外側から中を覗くことは出来ないようになっている。周囲の円環状の建物は独房に区分けされており、その一つ一つが建物の奥行きを占めている。この独房には、外側と内側(つまり塔のある方)に一つずつ窓が設置されていて、建物の外から差し込む光が、独房を貫くようになっている。この光によって塔の中にいる看守は囚人の姿を完全に把握することができる。言うまでもなく、収監された者からは塔と小さな監視穴が見えるだけだ。
 この装置の狙いは、独房の一つ一つを均一な「舞台」と仕立て上げ、この舞台のたった一人の「役者」たるに囚人に、スポットライトを浴びせることである。こうすることで罪人は、一人一人、完全に孤立化され、光のなかで不可視的に捕捉される。このような“理想的”装置が考案される以前の監禁施設であった土牢は、大勢の囚人を暗闇の中に押し込めるというものであったが、この「暗さ」は人を衰弱させる一方、監視の目を逃れさせることにもなったため、悪巧みの機会を提供することにもなっていた。この点、パノプティコンは仕切りによって囚人同士を完全に切り離し、彼らが結託するのを防ぎ、また、個人個人を光の下に置くことで、看守の視線によって囚人のぬかりない監視を可能にする。
 このような装置は、権力の行使者とは独立したある権力関係を創出し、維持する「機械仕掛け」としての効果を持つ。つまり、実際に権力を行使する者がやって来て、「大人しくしろ!」と怒鳴り付けながら鞭で叩かなくとも、囚人は勝手に静かになるのである。なぜなら、パノプティコンは、囚人と看守との間に視線の非対称性を生む(「見る-見られる」という一対の事態を切り離す)からである。囚人の側は常に可視的状態に晒されているが、実際に常に監視されているかどうかの確認は出来ないため、常に、監視されている”見込み”があることを承知せざるを得ない。一方、看守の視線は言わば、「不可視な眼差し」「透明な視線」である。まなざしとは常に誰かのものであるが、一望監視装置においては、その「誰か」を見る(或は知る)ことが出来ないのだ。だから実は、看守が実際に塔の中にいる必要すらない。囚人たちに不可視なまなざしがあるということを承知させるだけで事足りるのだ。
 このようにしてこの装置は、権力の自動化を可能にする。塔の中にいる看守に特別な能力が求められることは決してない。端的にいって、看守は誰にでも――極端なことを言えば、人間でなくとも――勤まるのだ*3。ここから言えるのは、権力の自動化は同時に、権力の没個人化をも可能にするということである。これに対し、「んなこたぁないさ。あたいだったら、ちゃんと調べるね、権力が自分をちゃんと監視しているかどうかを」とおっしゃる方もあるかも知れない。だが、こんな現実を目の前にしたらしゅんとなる他ないだろう。例えば、カラオケや高速道路の監視カメラの一部が単なる箱であることを御存知だろうか? 単なる箱であっても、「監視カメラ作動中」という看板とともに、レンズらしきものが自分を見ていることを知った瞬間、私(或はあなた)はスピードを落したり、違法行為を避けようと努力し始める。
 パノプティコンによって一方的な眼差しの下に置かれる囚人や、監視(カメラ)の元に晒された我々は、“自発的に”権力による強制を自身に働かせるように――言われなくとも独房の中で静かにするように――なる。これは一体どのような事態だろうか? 我々は、自ら、強制される囚人役と強制する看守役という二役を同時に演じ、権力関係を自分に組み込んでいるのだ。自分が自らの服従強制の本源になってしまうというこの救い様のない事態をフーコーは、権力の「常に前もって仕組まれる、永続的な勝利」と表現している。
 監獄に始まった一望監視のシステムは、学校(なぜ、一人一人の座席が決められているのだろうか? 名前と顔が一致しないから? では、一致した後も機械的に同じ席に配置されるのはなぜか?)や病院、工場(後には会社)などにも導入されるようになり、上述して来たような囚人をモデルとした「近代的主体」が誕生することとなった。今現在、すっかり尊ばれている「主体」を英語でsubjectと言うが、この語にはもう一つ、「臣下、臣民、国民」といった、「服従を受け入れる者」の意味もある。なぜこのような、真逆とも言える意味がsubjectという一つの語に含まれるのだろうか? 解答を急ぐ前に、この単語を分解しておく。「sub=下に+ject=投げ出す」だ。
 subjectに於ける相反する意味の同居、それは近代的主体が二重化された主体ないしは身体であることをほのめかしている。一つは、囚人自らが看守の肩代わりをしてみせたように、自己を監視し、自己に対し命令する主体であり、もう一つは、自分に監視され、命令され、行為する主体――「従順な身体」――である。このように二重化された主体は、常に自らを監視し、厳しい「規律・訓練」(「ディシプリン」, discipline)を自身に課すようになる。また、この主体を尽きない試験、つまり達成する毎に更に先へと設定される「ノルマ」(試験)が取り囲み、規律・訓練は永遠・無限に施されることとなる。
 かくして近代的主体は、権力に対して大人しく従順であるのみならず、強制されることがなくとも、「自己への配慮」を欠かさずに自主的に権力にとって都合の良い行為に勤しむ。このようなものとしての主体が出来上がると、人間は、最大限の経済的利用が可能な身体に生まれ変わる。権力が身体を利用可能なものとして発見したとき――近代的主体が誕生したとき――、それはまた、近代資本主義の歯車が回転し始めたときでもあるのだ。単なるバカ力の持ち主はいらない。命令のシステム内に収まる連中のみが必要とされるのだ。(だから例えば、どんなに力持ちでも、工場や軍隊、運動会や体育の授業なんでもいいが、規則・規範(ルール、ノルマ)に従えない者ははじき出される。)フーコーはこんな風に言っている。「身体は生産する身体であると同時に服従せる身体である場合にのみ有効な力となるわけである」。「主体」や「個性(別)」を叫ぶとき、われわれは率先して権力に「従順な」身体になってしまっているのかも知れない。

*1:pan(=汎、全て)+opticon(=光、視覚)。つまり、見る、「目」に関わる言葉

*2:図はこちらでどうぞ。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%8E%E3%83%97%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%B3%E3%83%B3

*3:極端な例を出せば、塔の中にネズミを一匹走らせておくだけでも構わないのだ。「ガサッ」と音がするだけで、囚人は「っげ、やばっ」と勝手に大人しくなる。