第二章 「六本木の赤ひげ」

第一節 インターナショナル・クリニック

 東京は六本木。様々な国籍の人びとが行き交い、世界各国の人びとが同胞人とたむろすることのできる空間があちこちに存在する。また、多くの国の大使館や、お客の大半を外国人が占めるという国際的なホテルも数多く立ち並ぶ。様々な国の要素がミックスされ、「どの国の」とは言えないが、どことなく異国情緒が漂うきらびやかな大人の街、六本木は多くの人びとを惹き付けて止まない。が、多くの店が並ぶメインストリートには、体格の良い――多くの場合黒人の――ガードマンが立ちはだかり、この街の華やかさの裏面ともいえる物々しさを演出している。
 こんな街の一角に、「うっそうと茂った樹木に隠れるようにして洋館造りの建物がある」 そうだ。「インターナショナル・クリニック」である。ここでは、日本の健康保険は適用されず、外国の健康保険のみ通用する。だが、「インターナショナル」たる所以はそれだけではない。この病院はなんと、英語やフランス語、ドイツ語、ロシア語にギリシャ語、中国語などの言語で対応してくれる。ほかにも、詳細な薬のデータベースを駆使し、国や文化によってそれぞれ異なる薬の名称を日本での呼び名に「翻訳」してくれる 。薬の有無や正誤がときとして、そのまま患者の生死を左右してしまうことを考えると、この「翻訳」の果たす役割は意外なまでに大きい。それだけではない。この病院の設立者でもある院長は、日時を問わず往診にも応じてくれる。更に驚くべきことに、患者の支払い能力によって診察料が変動する。困窮を極める人からはお金を取らないが、富める者からはガッポリといただくと言う訳だ。また、入院施設を持たないこの病院は、患者に入院が必要な場合、事実上提携関係にある病院に治療を依託しているのだが、患者の懐具合に配慮して、入院治療費まで肩代わりしたこともあると言う。現在、この病院では、英語を共通語とする五人の医師が働いている。日本人二人に、マレーシア人とアメリカ人が一人ずつ、そして何国人でもない、院長のユージン・アクショーノフだ。このアクショーノフという男、彼こそが「六本木の赤ひげ」である。
 黒縁眼鏡に白髪の、温和な雰囲気が漂うおじいちゃん、アクショーノフがインターナショナル・クリニックを六本木に開業したのは、もう半世紀以上も前の一九五三年のことである。第二次大戦中の一九四三年、日本の敗戦とともに消滅した満州国ハルビン(哈爾浜、「ハルピン」とも言う)から、医師を目指して来日した彼は、東京慈恵会医科大学に学び、一九五一年に医師国家試験に合格した。ところで何故、彼は医師になるために日本へやって来たのだろうか? この問いに答えることはそのまま、彼の複雑なバックグラウンドを語ることにもなる。そこで、この特異な人生を歩んで来た人物の伝記とも言える書物、『六本木の赤ひげ』を繙いてみたい。

第二節 アクショーノフの生い立ち

 一九二四年三月、アクショーノフはハルビン郊外のヤーブロニャというところで生まれた。父ニコライは赤軍との戦いに破れた後、運の味方もあり、命からがら中国領のハルビンへと逃げて来た白系ロシア人である。現在、黒龍江省省都となっているハルビンは、「帝政ロシアが十九世紀末極東進出の拠点として」「東洋のモスクワ」を目指して、建設された都市だ 。一九三一年の満州事変後、ヤーブロニャ周辺は「各国軍人や馬賊が暗躍」する危険な地帯となったため、一家はハルビンの商業地域にあった日本人街に居を構えた。父はそれまで、ヤーブロニャの製材会社に勤めていたが、日本軍の進出により経済的に苦しい状態に陥った。これが、ユージンの人生に一つの転機をもたらす。彼らは家計を少しでも楽にするために、家の半分を、熊本県からやって来た女性二人に男性一人の三人「きょうだい」(原文ママ)に貸すことにしたのだ。そしてこのきょうだいが、彼に日本語を教えた。一九三二年、満州国建国が宣言され、日本軍がこの地域に進駐すると、ニコライの勤めていた会社は倒産し、経営権は日本人に移り、彼は職を失う。これを機に、馬好きであったニコライは、ハルビンから遠く離れたサルトゥ という所に土地を買い、牧場経営を始めた。一方ユージンは、ハルビンの中心街にあった全寮制のフランス系カトリック・スクール、「聖ニコライ学院男子学校」に入る。ここで、彼は英語を習得する。そして満州国が建国十周年を迎えた一九四二年、十八歳になったユージンに、運命的としか言い様のない出会いが待っていた。この年の夏、日本から華族の視察団が満州へやって来た。父ニコライは、丈夫な新種の馬を作り、関東軍などに売っていたのだが、ある日この一行が彼の牧場へやって来た。夏休みで帰省していたユージンは通訳を買って出たのだが、一行の中にいた津軽義孝(後に常陸宮華子の父となる)と親しくなった。津軽らを招いた夕食の席で、ユージンは将来の進路を尋ねられる。六歳の頃から医者になろうと思っていた彼は、「フランスへ医学の勉強に行きたい」と告げた。フランス系の学校に通っていたため、フランスの大学には無試験で入ることができたからだ。だが、パリをドイツ軍に占領されていた当時のフランスは、留学生を受け入れるような状態ではなかった。このことを心得ていた津軽たちは、日本で勉強することを提案する。「日本には伝手がない」といってその申し入れに躊躇するニコライに対し、津軽はユージンの面倒を見ることを約束する。そして、約束は果たされた。夏休みが明けるとユージンは、日本への留学を勧める招待状を受け取る。満州に留まっていればいずれ、関東軍指揮下のロシア人部隊に入隊しなくてはならないことと、夢に一歩でも近づくために、彼は日本行きを決意する。ビザ取得などの手続きをする傍ら、早稲田大学国際学院の留学生を対象とした日本語特別コースの受験許可を得た彼は、出発の手はずが整うと一九四三年三月、日本へと旅立った。
 一九四四年、激しくなる一方の戦火の中、早稲田大学国際学院を一年で修了したアクショーノフは、津軽の勧めもあり、東京慈恵会医科大学に入学する。戦時中、彼は憲兵に監視されていたが特に困ったことはなかったようだ。それどころか、憲兵から映画のエキストラの仕事を紹介され、数々の映画に(敵国人役として)出演し、結構なギャラを得ることができた。(あの喜劇王エノケンと共演したこともあるという!)戦後、彼はGHQ連合国軍総司令部)に通訳として雇われるが、あるとき、白系ロシア人の軍医と知り合う。この軍医は、せっかく医学を学んでいるのだから、と言ってアクショーノフを――彼が医大の二年生であるのにも拘らず――米陸軍病院で働けるように手配してくれた。ここで彼は、通訳をしながら医者としての修行を積んだほか、松岡洋右を始めとするA級戦犯と会話を交わすという、特異な経験までしている。
 終戦の後、何年かすると、アメリカから軍人のみならず、民間人も来日するようになったが、民間人を米軍病院で診る訳にもいかないということで、港区芝公園に民間人を対象とした診療所が開設された。アクショーノフは暫くの間この診療所と陸軍病院で働いたが、一九五三年に独立し、六本木にクリニックを開業する。三年後に現在の場所へ移転するが、これが「インターナショナル・クリニック」の始まりである。

第三節 アクショーノフと無国籍

 さて、繰り返しになるが、アクショーノフは満州国からやって来た。そもそも、満州が「国」として国際的に承認されていたかどうかは判断の分かれるところだが、何はともあれ、彼は満州のパスポートを持って来日した。が、日本の敗戦とともにこの国は消滅した。よって、彼の国籍は日本にいる間に消失した。
 戦後、満州国の国籍を失ったアクショーノフには二つの選択肢があった。日本国籍ソ連国籍の取得である。だが、前者は素行内容を事細かにチェックされる上、文化的にも日本人になりきることが要求されていた。なぜなら、血統主義を基本とする日本の国籍法にとって「帰化」とは、ある外国人が日本という国の正当な構成員になることであると同時に、「日本民族」になることをも含意しているからだ 。言うまでもなく、この幻想に過ぎない「日本民族」という形象は、未だに外国人の日本への帰化を困難なものにしている。また、後者を選ぶと当時働いていた米陸軍病院で働けなくなる可能性があった。もちろん、ソ連国籍を取得し、ソ連へ帰国するという手もあったが、この国で生きて行くためには、マルクス・レーニン主義イデオロギーを受け入れる必要があることを知り、この可能性は否定された。革命以前のロシアに愛着を寄せるアクショーノフにとって、「マルクス・レーニン主義は最もいやなものの一つ」 だったし、「イデオロギーで押えつけられる生活は、私にはとても我慢できないと思った」からだ。そして、彼が選んだのは第三の道、「無国籍」である。どっちつかずの「無国籍」であるがゆえに、冷戦期は両陣営からスパイと疑われ、逮捕されたことさえあるアクショーノフはこう言い放つ。「無国籍ってとても自由ですよ。国家やイデオロギーに縛られなくてすむ」 。また、冗談まじりに「国境のない診療所には、国籍のない院長が似合う」 とも言ってみせる彼は、明らかに、無国籍という立場を思う存分に享受している。

第四節 「有国籍者」とは?

 「〜ができない」「〜がない」などと否定形ばかりに包囲され、避けるべきとされる無国籍を享受するアクショーノフは果たして、頭のいかれた「不気味(ウンハイムリッヒ)な」おじいちゃんなのだろうか? 今なら難無く国籍を取れるのにも拘らず、それを拒み続けるアクショーノフの言葉を、「彼はあくまでも特殊な例だし‥‥」と言ってやり過ごすべきだろうか? 国際社会やハイデガーの立場からすれば、そうだと言わざるを得ない。だが彼は、無国籍者の反対、余りにも当然過ぎて立ち止まって考えることのない「有国籍者」について言外に何かを語ってはいないだろうか。例えば、人生の四分の三を無国籍者として生きて来たアクショーノフが「国家やイデオロギーに縛られ」ていないのならば、われわれ有国籍者は、いずれかの国やイデオロギーに拘束されているのだろうか。
 よく言われることだが、日本で普通に暮らしていれば、「私は日本人である」などと意識することはない。だが、インター・ナショナルな空間となると、急に「日本人」という意識が頭をもたげ始める。四年前のサッカーのワールドカップ期間中、日本中が真っ青に染まり、そこらじゅうに日の丸がはためいていた光景は、記憶に新しいだろう。しかもこの年は日韓が不自然に歩み寄ったためか、日本人どころではなく「アジア人」という同胞幻想が生まれていた。韓国とある西欧の国が戦った晩、その国のユニフォームを着て飲み屋で一生懸命応援していた私は、見知らぬ人に叱られてしまった。「お前は日本人なのに、アジア人なのに、何で韓国を応援しないでヨーロッパの国を応援するんだ!」と。それも一度だけでなく、三度も! なるほど、アクショーノフは正しい。日本人である私は、自分の好みで応援するチームを決めることすら許されていないのだ。また、異国でたった一人の日本人として暮らしているときも、「日本人」という鋳型に嵌めこまれてしまうことが多々ある。例えば、熱心に楽器を練習しているとすると「日本人って、練習熱心だね。ここの国の人だったら、絶対にあんなに練習しないよ」と言われ、また逆に怠けていると、「日本人なのに、君は怠け者だなぁ」といった具合だ。私は練習熱心だったり、怠け者だったりする以前に、まず日本人でなくてはならないのだ。「日本人」という甲冑をぶち壊し、自分の名前を獲得するのにどれほど苦労することか! だが、ある特定の国を想定してもらえるだけまだましかも知れない。何せ日本には、日本人以外の者を一緒くたにして放り込む「外国人一般」という鋳型があるのだから。日本で外国人として暮らす人々にとって、それが如何に窮屈であるかは、容易に想像できるだろう。以前アルバイトをしていたコンビニでは、人手が足りないのにも拘らず、応募して来た女性を「外国人」というだけで、ことも無げに断っていた。ほかにも、逃亡中の容疑者の特徴として、「外国人とみられる男(女)」という言い方があるが、これでは、ほとんど何の特徴にもなっていない。日本人が疑いの的から外され、代わりに多種多様な外国人に一様に、疑心の満ちた視線が注がれるだけだ。二、三年ほど前のことだったと思うが、片言の日本語と英語で強盗を働いた人が、「外国人とみられる男」として行方を捜索されていたが、実は日本人だった、なんてこともあった。犯人の発見が遅れたのは言うまでもない。
 また、極端な例になるが、二〇〇四年四月、戦乱のイラクを訪れた幾人かの日本人が武装勢力に身柄を拘束されるという事件が起きた。本人らがどれだけ真摯に反戦反米の態度を貫いていようとも、日本国籍を有していれば、アメリカに追従する日本政府の代理、あるいは象徴として捕らえられるに価するのだ。しかも当然の事ながら日本人を守ってくれるはずの政府は、迷惑千万といった様子で「助けてやったんだから、かかったカネを返せ」とまで言い出す始末だ。(あれ以来大流行りの「自己責任論」が、国による国民保護の責任を回避する論理として立派な機能を果たしているのは言うまでもない。)確かに、日本国籍を有し、日本国が発行したパスポートがなければ、彼らはイラクに入国することさえできなかっただろう。また、彼らが無事帰国できたのも日本政府が人質の解放に向けて動いたからだろう。では、解放された日本人たちは政府に謝罪し、国民に犯罪者のように扱われることに耐え(彼らが空港に降り立ったら、卵を投げ付けようと画策していた人たちさえいるという)、「罰金」を支払うべきなのだろうか。もちろんそんなことはない。なぜなら、自衛隊イラク駐留が、「イラク侵略」を目的としない彼らが危険に巻き込まれる可能性を飛躍的に高めたのだから。国家の政策はときとして、個人の主義主張をいとも簡単に吹き飛ばし、国民にまとわりついて牙を剥くことがある。そのことを見事に証明してしまったのが、イラクでの人質事件だったのではないだろうか。「自己責任論」を前面に押し出し、「自分でしたことには自分で落し前をつけろ」と人質を邪見に扱う政府の態度に、「果たして日本政府には、国民を保護する気なぞあるのだろうか?」と疑問に感じた人が、少なからずいたことだろう 。ついでに言い添えておくと、無事帰国した日本人が政府から渡航費を請求されたことを驚きを以って伝えたドイツでは今年(二〇〇六年)、イエメンで拘束され、後に解放された家族の帰国費用を税金で全額負担すべきかという議論が沸き起こっている 。
 以上のような現象を見せられて来たわれわれは、あらためて、アクショーノフが言外に語っていることに思いを致さずにはいられない。国民であること、有国籍者であること、国籍によって一定の国に帰属していること、ウンハイムリッヒでないことの肯定性や自明性に疑いを差し挟む余地は、十分にあるのだ。そしてこのことは、国籍を得ることのできないぽんちゃんを、「無国籍地獄」から救い出す可能性があることを示唆している

第五節 無国籍という自由

 ウンハイムリッヒでないこと、つまり、故郷に根をはることで常に一貫した帰属意識を持ち、確固たる存在として生きること。ハイデガー自身は、宙に浮く地球の写真を目の当たりにして、人間が大地に根を張るという安定した感覚が、もはや完全に打ち砕かれてしまったと嘆いたそうだが 、人々は未だに根を生やすことを望むし、ウンハイムリッヒに良からぬ価値を付与する傾向も根強く残っている。だから現代社会はウンハイムリッヒな人が発生するのを避けようとして、全ての人間に生まれながらに国籍を付与し、どこかの国へ根付かせ、その国の人間である証拠としてIDカードを発行する。そして全ての国民は、このカードに記された情報に自己を同一化することで、国に保護されると同時に、様々な権利や自由を享受できる。だから、どこの国からも身分証明書を発行してもらえない無国籍者だけでなく、そこに表記されている情報への同一化を拒む人も、国民であることで得られるメリットを断念しなくてはならないし、根拠無き者として、その存在の足場を失う。そこで人々は無根拠になることを恐れ、ことあるごとに「私」を根付かせる。かくして、しっかりと大地に足を踏ん張り、「私は〜である」という自己同一性に貫かれた存在者、あるいは何にも流されてゆくことのない確固たる「主体」が尊ばれることになる。また、「私とは誰か、私とはどんな存在か」と問い続けることでより確実なアイデンティティを構築するよう、そこかしこで要請される。あたかもそれが、人類普遍の要求であるかのように。挙げ句の果てには、「自分探し」などというのが流行り出し、「本当の自分」を発見するストーリーが美談として語られている。そしてそれに触発されるようにして、人々はプロフィールの作成に勤しむ。(その成果はネット社会で嫌と言うほど見ることができる。)
 そんななか、ウンハイムリッヒに肯定的な眼差しを向けたら、気違い扱いされるだろうか? いや、そんなことはないだろう。われわれは既に「有国籍」であることの負の部分を見て来たし、アクショーノフが無国籍を享受していることも知っている。また彼は、こんなことも言っている。「国籍を取ってもメリットがない。今なら行こうと思えばどこの国へでも行ける。むしろ無国籍のほうが自由でいいですよ」 。無国籍という自由。われわれが享受する自由と、アクショーノフのそれは全く異なる。有国籍者は、自由に振る舞う権利をある国から付与されたり、保証されることで、初めて自由を手にする。だが、アクショーノフは、自分で自由を獲得したのだ。
 彼は、無国籍であるがゆえに、冷戦時代は両陣営から疑われたというが、その逆もありうる。つまり、彼は如何なる国にも属さないのだから、例えば、「私は社会主義者だから、資本主義者のあなたをどうも好きになれない」といった類いの、イデオロギーや国家体制に端を発する嫌悪感や、その反対の同胞意識とも無縁だ。どこにも根拠づいていない、「絶対異邦人」である彼は、誰からも疑われる可能性を孕むと同時に、誰からも信用される人でもあるのだ。彼が、数々の国の大使館や世界各国の人々が訪れるホテルの指定医になれるのは、操る言葉の多彩さだけによるのではなく、こうしたどっちつかずな、立場のなさゆえだろう。文字通り分け隔てなく人と接することのできるアクショーノフが、無国籍者にとって最大の困難の一つ、海外への渡航(日本への再入国証のほか、各国に入る度にヴィザ査証が必要となる)を、今までに培って来た(国際的な)人脈によって、他の無国籍者より楽にクリアしているのにも納得がゆく。何も、「私も国籍を捨てよう」と言いたい訳ではないし、ぽんちゃんに「アクショーノフみたいになれば良いじゃん」と無理難題を突き付けるつもりもないが、どの国家にも、イデオロギーにも縛られないという無国籍者にしか味わえない自由に、抗し難い魅力を感じるのは私だけだろうか? そんなことはないと信じておこう。そして、ウンハイムリッヒへの仄かな憧れを導きの糸に、われわれは無根の思考の中へと立ち入ってゆくことにしよう。