第一章 ぽんちゃんを巡って

第一節 無国籍児、ぽんちゃん

 二〇〇五年十月、新聞に「ぼくは誰?『何とか国籍を』関係者苦慮 国籍不明の子、保護から半年」という見出しが付いた記事が、黒い大きな瞳をした男の子の写真と共に掲載された。三月中旬、栃木県小山市のある日本人男性が、以前工事現場で見かけたことのあるタイ人とみられる男性から子どもを預かった。当然の如く「一時的に預かる」と思っていたようだが、なんと、四月中旬になってもこの子の父親らしき人物が一向に姿を見せないというのだ。困った男性は遂に、同県の児童相談所に連絡するに至った。この男の子、現在は養護施設で元気に暮らしているというのだが、保護からもう半年が経つのにも拘らず、引き取り手は現われないそうだ。だが問題は、この子が孤児になってしまったということだけに留まらない。彼について分かっている僅かな事柄を、記事から引用しよう。

 男の子は身長約一メートル。所持品はなく、「名前は?」と日本語で聞くと「ぽん」と答え、「いくつ?」には片手を広げてみせた。しかし、「どこから来た?」には「あっち」。両親の名前も「パパ、ママ」としか話さなかった。日本語はほとんど話さない。タイ語の質問を少し理解したが、身元がわかる答えは返ってこなかった。

 彼の言う「あっち」が常に一定の方角を差していて、その先に本当に両親の家があったなんてことであれば、それはそれでなかなか感動的なのだが、実際はそうもいかない。性別はともかくとして、本名や親の名前、出身(出生)地や正確な年齢も分からないのだ。
 ここで、いささか唐突だが、財布に入れて携帯している「IDカード」を取り出してよく見てみたい。自動車の運転免許証を持たない私にとって、有効である「IDカード」は学生証と国民健康保険被保険者証の二枚だ。前者には顔写真と共に私の生年月日と名前、所属する大学名や学科名、それに学籍番号やバーコードなどが印刷されている。後者には国から振られた番号に名前、生年月日やこのカードの有効期限(あっ、切れている‥‥)、世帯主の氏名と住所、それに性別が書かれている。ところで、「ID」とは言うまでもなく、メidentityモ(同一性、一致)の略である。だから、これらのカードに表記されている幾つかの「情報」と持ち主の関係を示す記号があるとすれば、それは「=」だ。そしてこの等号が成り立ち、カードの情報が持ち主の身分や属性を保証するとき、彼はまさしく「情報に解体され」 ていることになる。
 さて、「ぽんちゃん」に話を戻そう。彼には、「IDカード」に書き込まれるべき「情報」が性別(と場合によっては瞳の色)以外に何もない。だが子どもは本来、例えIDカードなるものがなくとも、親が身分を保証してくれる。だから五歳児が、「あれ、ぼく、身分証明書なくしちゃったよ。困ったなぁ」なんて悩んだりすることはない。ぽんちゃんも恐らく、自分を巡ってオロオロする大人たちを見て、きょとんとしていることだろう。だがIDカードによって法的な存在が保証されることを知っている大人であれば、現代社会において身分を証明できないという事態に対し、恐怖にも近い気持ちを抱くのは当然だ。私も以前、地元の駅で職務質問を受けたとき(断じて誓うが、怪しい素振りなど見せていなかった)、「学生証を持っていて本当に良かった‥‥」と安堵したものだ。だから、記事の見出しにある「ぼくは誰?」という問いは、ぽんちゃん自身のというよりは、彼を囲む大人たち――こうした事情に「困惑」する養護施設の関係者、あるいは取材をして不安を隠しきれなくなった記者――から発せられた、悲痛な叫びに近い疑問であろう。そして、関係者を更に困らせているのは、ぽんちゃんが「IDカード」を持とうとする場合、一体どこの国の政府に発行してもらったらいいのかが分からないということだ。つまり、彼には国籍が無い。
 日本の国籍法は、血統主義(詳しくは後述)に基づいて定められているため、親が日本人であれば、その子どもはどの国で生まれようと、日本国籍を踏襲する。しかしながら、補完的に出生主義をもとっていて、国籍法第二条第三項によれば、子どもが「日本で生まれた場合において、父母がともに知れないとき、又は国籍を有しないとき」には、日本国籍を取得できることになっている 。ぽんちゃんの場合、両親の国籍が不明なので、この条項を適用してやれば日本国籍を取得できそうなものだ。しかし、「日本で生まれた場合において」というのがネックになる。彼が今現在日本にいるからと言って、日本で生まれたという証拠にはもちろんならない。また、タイ語を少しばかり解するというのは、両親かその一方がタイ人であった可能性を示唆するだけであって、ぽんちゃんの出生を物語る証拠とは到底言えない。現にタイ大使館は、ぽんちゃんへのタイ国籍付与の打診に対し、「タイ人と断定できる証拠がなく、国籍は与えられない」と正式に断った。大使館の担当者によると、「タイ語ミャンマー人でもベトナム人でも話す人がいる。証拠にならない」とのこと 。しかしながら、ぽんちゃんが日本で保護された以上、日本国籍を何とか与えられないものなのだろうか。彼が法的に日本人になりうる可能性として、「関係機関が親を捜すなど手を尽くしたうえで法務省が状況から日本人の子と判断、首長が職権で戸籍をつく」る方法があるという。だが、この方法について「小山市は『状況から外国人の可能性が高く、こうした方法は難しい』と否定的だ。」
 こうなるともはや、マスコミの力に頼らざるをえないだろう。できるだけ多くの人びとにぽんちゃんの存在を知ってもらうことで、彼の親や出生に関する情報を手に入れないと、児童福祉法によって継続されるという保護措置が十八歳で切れた後、この男の子は、「どこの国にも属さない人」になる 。

第二節 無国籍に対する「困惑」や「苦慮」の原因〜国籍とは何か?

 「国籍を有する者」とは、どこかの国に属する「国民」である人のことだ。そして国民は、国が定めた義務を果たす限りにおいて、国が保障する権利を享受することができる。世界のあらゆる国は、詳細は異なるものの、自国民を選別する装置として、国籍法を制定している。これは生地主義(jus soli)か血統主義(jus sanguinis)のいずれかに基づいて定められており、前者は自国で生まれた子どもに、親の国籍の如何を問わず、国籍を与えるというもので、「英米法の国々の他、アルゼンチン、ブラジル、チリなど移民受け入れ国」 で採用されている。一方後者は、親の国籍が基本になっていて、例えば親が日本国籍ならば、子どもも日本国籍を継承する。こちらは、「ドイツやイタリアなどヨーロッパ大陸の国々、そして東アジアの国々、つまり中国、日本、韓国、北朝鮮」 などで採用されている。また、カナダやメキシコでは、生地主義血統主義を併用した制度が敷かれている 。
 言うまでもなく、あらゆる人間は一人の女性から生まれ落ちるため、母と子の関係は、代理母などの特殊な場合を除くと絶対的なものである。ところが日本では、血統主義に基づきながらも二重国籍を防ぐべく父系血統主義を導入したため、この、子にとって最も確実な母との「血」の繋がりが長らく否定されて来た。ついでに言い添えておくと、この制度のために、自分の子どもが無国籍になることに対して何一つなす術がなかった母親たちが沖縄に多く存在した 。もっとも、一九八四年の国籍法改正で父母両系血統主義が採用されたため、現在はこのような問題は発生していない。しかし例えば、出生主義を基準とする国の夫婦が、血統主義を適用する国で子どもを生んだ場合(あるいはその逆の場合)など、無国籍児が生まれる余地は依然として残っている。だが、殆どの場合、以上に述べたような国籍法によって、われわれの国籍は出生時に決定されるようになっている。
 ところで、国民を生まれながらに確実に掬い取る装置である国籍法は、見方を変えれば、無国籍者の発生を避ける装置でもある。例えば、現行の日本の国籍法では、外国籍取得のために自らの意志で国籍を離脱し、日本国籍を喪失することは認められていても、無国籍となることはできない(第十一条および第十三条)。「できない」などという言い方は、不適切かもしれない。なぜなら、「国籍を持たない」ことには何のメリットもないと想定されているからだ。試しに、世界人権宣言や国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の無国籍者に対する姿勢が簡潔に示されている文章を、自身も長らく無国籍状態を経験していた陳天璽という人物の自伝的書物、『無国籍』から引用しよう。

 国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)は、一九五四年に「無国籍者の地位に関する国際条約」を制定し、「国家の分裂あるいは国境線の変更などによって無国籍となる恐れのある人々を守る」ことを提議している。無国籍の状態にある人は、祖国に戻ったり市民としての権利を享受することが出来ない状態にあることを挙げ、また世界人権宣言は「すべて人は、国籍を持つ権利を有し、何人も、ほしいままにその国籍を奪われることはない」と規定していることを指摘し、UNHCRは一九六一年に「無国籍者の減少に関する条約」を制定、加盟国に対して「出生、人種、居住などを理由にして国籍を与えないことを禁止」している 。(強調、引用者)

 また、UNHCRでは無国籍者を以下のように規定している。

無国籍者とは、いかなる国からも国民として承認されていない人々のことである。世界では数百万の人びとが、事実上、この法的に宙ぶらりんな状態に追いやられている。彼らはこのことで、国や国際間の法的な保護や、教育や健康といった基本的な権利を、最小限にしか享受できていない 。(強調、引用者)

 実は、無国籍者保護のための条約は二つとも評判が悪く、二〇〇五年現在、一九五四年の条約は五八ヶ国、一九六一年のそれは三十ヶ国しか加盟していない 。(日本はいずれも批准せず。)だが、例え加盟国が少なくとも、国際社会が無国籍者をどのような存在として捉えているかを知ることはできるだろう。傍点で強調した部分から読み取れるように、要するに、国の集合体としてのこの世界において国籍がないということは、誰からも法的にその存在を認められないということを意味する。それは恐れるべき、また避けるべき事態なのだ。彼らには、どこに立っていようと住んでいようと、そこにいる正当性(legitimacy)がない。例えば、彼らが立ち退きを命じられた場合、「不当だ!」と叫んだとしても、それを正当な訴えとして回収する法も制度もないため、どれほど声を張り上げても、その叫びは虚しく暗闇にこだまするだけである。

 近代国家はその成立と共に、国境という輪郭を定め、その中を塗りつぶす「色」を発明した。そして、「規律・訓練(ディシプリーヌ)」をあらゆる場に浸透させることによって「従順な身体」を造り出し(ミシェル・フーコー) 、国内にいる全ての人を一色に染め上げることに傾倒した。その企てが終わるや否や、今度は、無色の地を発見してはなり振り構わず自国の色を塗りたくった。こうして、世界中が「列強」によって荒々しく塗り潰される過程で、二つの世界大戦が勃発した。やがて二つ目の世界戦争が一応の終結をみると、今度は逆に、列強の色は脱色され、かつて強制的に色を塗られた地域の民衆は、色を自ら決めることができるようになった。しかし注意しなければならないのは、一度でも色と接触した地は、無色に戻れないということだ。かくして現在、世界は二百近くの色で塗りつぶされている。もちろん、二つ以上の色がせめぎあう、どっちつかずの地域は存在する。だがそこは、将来的に何色かが決定されるべき所であって、無色地帯とは呼べない。では、如何なる国からも税金を徴集されない店が立ち並ぶ、国際空港は無色だろうか。確かに国際空港には、色と色の「間」、何色でもない場所がある。だがそこは、ある国から出たり入ったりしようとする人や物が正統な色を持っているか否かを審査する空間であって、あくまでも色が前提となっている。だから、空港に留まり続ける人はいないし(空港の無色性を活かして、何色にもなることなく十六年間もド・ゴール空港に住んだ男 もいるが、彼は例外中の例外だ)、働く人も行き交う人も、何色かに染まっていなければならない。また、ほぼ全ての色が集結する国連は、それぞれの色を正統であると承認し合う国々のみに発言権がある。だから、どの色でもない人間に配慮することはあっても、彼らのための席は用意されていないのだ 。要するに、カラフルな世界地図の中に、色無き人たちが住まう場はない。カラーの世界の住民からしてみれば、何色でもない者たち、つまり無国籍者は、「いるはずのない人」なのだ。存在を確保する足場を持てなくなった彼らは、地上のみならず空にまで色がついているこの地球において、空に浮いていることすら許されず、不在者として存在せよという不可能な要求を突き付けられているのだ。

第三節 人々の不安を漠然と呼び起こすもの

 フランスの法制史研究家、ピエール・ルジャンドルは、(アリストテレスに倣い)人間を「語る種」と定義している。彼の日本への紹介者である西谷修によれば、それは人間が「ただの生き物なのではなく言語によって生を組織する生き物(‥‥)言いかえれば(‥‥)生物学的次元と言語的次元に相わたる存在」 だということだ。このことを踏まえると、人間は、二度生まれなくてはならない。つまり、一人の女性によってこの世に生み落とされた(生物学的な誕生を果たした)赤ん坊は、今度は、「社会という登録域に登記」 され、社会的に生まれ直さなければならないのだ。一度目の誕生は、例え胎児が母体外に出てくるのに長時間を要したとしても、へその緒をチョキンとやった瞬間に完了する。だが二度目の誕生――社会への参入――は、一度目のそれと同じように一瞬で済むものではなく、あるプロセスを経ることで可能になる。それぞれの文化には、宗教や歴史、時代的背景などによって多種多様な社会への参入モードがあるが、ルジャンドルはこれらのうち、「いま世界化している西洋的なヴァージョン」の研究を通じて、「どの文化にも共通する『人間の再生産』の要請とそれに対応するメカニズム」 を明らかにする。以下に、「語る種」としての人間が生まれる様子を見てみよう。
 生まれたばかりの赤ん坊にとって、母と自分を区別することは不可能である。この意味で、母と子は密着状態にあるが、この癒着した関係に割って入るのが、子でも母でもない第三者としての〈父〉である。ここで気をつけなくてはならないのは、〈父〉が、必ずしも「遺伝学的な男性の親」 を意味するのではないという点だ。そうではなく〈父〉とは、子を名付け、子にとって最初の線分あるいは差異――「お前はその名で呼ばれるべき者であって、母ではない」――をもたらす、「分離の機能を担う者」 のことである。〈父〉はいわば、新生児の不分明な闇の世界に差し込む「言語の光の一筋」 であり、子は、この光を頼りにしてことばの世界への参入を開始する。もう少し具体的に言えば、赤ん坊は「周囲で話されることばにしだいに声を同調させ、やがてことばの秩序のなかに取り込まれるようにして入ってゆく」 のであって、自ら言語を獲得するのではない。また名前とは、まだことばを喋らぬ子が「ことばの秩序に参入するときに、それを主体として迎え入れる場所」 のことであり、この場所を予め用意されている者だけが、話す主体になれる(一人称を獲得できる)のである。
 以上が、人間化の最も原理的な構造だが、この二度目の誕生を社会の中に登記するやり方は、各文化によってそれぞれ異なる。が、「地球全体が西洋化され」 ている現代、どの国も西洋の法制度を一揃え取り入れているため、この登記は「戸籍登録という行政的形態のもとで」 担われている。具体的に言えば「出生届」――新生児を、この子を生んだ女性とその夫の子どもと定める書類――を、行政機関に提出しなければならないということだ。そしてこの書類が受理されたとき、この子どもは、社会的にその存在を承認されたことになる 。国籍に絡めて言うならば、このとき赤ん坊は、彼(女)自身が認識していようといまいと、ある国の国民として、その国が制定する法の後ろ楯がある者として、正式に認められたことになるのだ。かくして、国への登記を済ませ国籍を得た新生児は、その国に安住することが可能となる。

 ここで再び、ぽんちゃんに登場してもらおう。ぽんちゃんの両親は行方知れずだし、生まれた場所も分からないため、彼が国籍――如何なる国のであれ――を得られる可能性は非常に低い。また下手な憶測は避けたいところだが、彼の身元を知る有効な情報が口から全く出てこないということは、五歳という年齢の割には、言葉が遅れ気味だといわざるをえない。(もっとも、彼が五歳だという証拠は何もないのだが。)恐らく、ぽんちゃんはまだ、言語秩序への参入の比較的初期の段階にいる。今後、この男の子は、児童施設で遅ればせながらも、二度目の誕生のプロセスに入って行くことだろう。だが、如何なる国の司法制度にとっても、彼を前に途方に暮れる関係者、そしてわれわれにとってもぽんちゃんは、自然発生的に突如として出現した、正に「いるはずのない人」である。あらゆる系譜の外にいる者、純然たる孤児(みなしご)、無国籍者、無故郷者であるぽんちゃんを登記する方法を、現代社会は知らない。そしてこのことが、ぽんちゃんを前にしたわれわれに漠然と、不安を呼び起こすのだ。

第四節 ハイデガーの嘆き

 ぽんちゃんを始め、数百万人もいるとされる無国籍者。彼らのことを先に、「いるはずのない人」とか、「存在を確保する足場を持てなくなった」、「不在者として存在せよという不可能な要求を突き付けられている」などと記した。いささか唐突だが、人間の「無根化」を嘆いたハイデガーなら、無国籍者を、現代が生んだ「無気味な者たち」と呼ぶかもしれない。「無根化」とは、現代技術によって故郷から切り離された人間が、根を持たない、つまりは無根拠な者になってしまうことを言う。前出の西谷修は自著、『不死のワンダーランド』に於いて、ハイデガーの考えを以下のように説明している。

技術は人間社会の変化をみちびき、個的なあるいは共同的な存在様態を変えてきた。そしてその果てに、原子力工学生命科学は生と死の操作性を手中におさめ、人間の実存そのものを宙吊りにしてしまった。(‥‥)生と死が「技術」の領域に入り、人間の存在が宙に浮くと、もはや人間に固有の起源も終末もなくなり、一個の存在が生まれて死ぬという完結した物語は成り立たなくなる。個的な存在を成り立たせているアイデンティティの枠そのものが根拠を失ってしまうのだ。

「すべて本質的なこと偉大なことは人間が一つの故郷をもっていて一つの伝承に根ざしていたということからのみ生じた」と彼(引用者註:ハイデガー)は言い、故郷を失ったこと、土着性を失ったことが未曾有の危機をもたらしていると語る。人間は技術に促されて自然を挑発し、自然を開発し、そうして形成される人工的世界に迷い込み、その閉域に追放されて存在することの何たるかを忘れ尽くしている。

 このような、技術による故郷や土着性の喪失と、それに無自覚である現代人(あるいは社会)を、ハイデガーは「不気味」だと言う。故郷をもつこと――ある人間が、数(マス)に埋もれることのない「個」として他と区別され、その存在を根拠づける出自(起源)をもつこと――を人間にとって「本質的なこと偉大なこと」と位置付ける彼は、この「不気味さ」を表わすのに、unheimlich(ウンハイムリッヒ)という語を用いる。ウンハイムリッヒは確かに、「不気味な」とか「恐ろしい」を意味する形容詞なのだが、ハイデガーがこの単語を選んだのには訳がある。この語を三つに分解してみよう。un(否定の接頭辞。英語のunに相当)+heim(我が家、故郷の意 。英語のhomeに相当)+lich(形容詞を作る接尾語)。つまり、ウンハイムリッヒとは字義通りに読めば、「非−故郷的な」という意味になるのだ。非−故郷的、即ち、存在の「根」である故郷との関係を断たれること、異郷にあること、親しみ慣れない環境にあること、自分が帰属する場をもたないこと、我が家にいるような心地よさや安心を得られないこと。故郷こそが人間の安らぎの地だと考えるハイデガーにとって、それらは「不気味」以外のなにものでもないのだ。
 ぽんちゃんという存在――いや、彼は存在根拠をもたないウンハイムリッヒそのものなのだから、「不在者」と言い換えるべきだろう――を前に、ハイデガーならこんな風に嘆いてみせるかも知れない。「あぁ、この故郷無き『不在者』がどうして安らぎを得ることがあろうか。彼こそ、無根化社会の悲劇そのもの、この世が想定しうる、最も不幸な者なのだ」と――。