第三章 ノマドの世界

第一節 国家と「アイデンティティパラノイア

「国家」(‥‥)――それは金毛獣のある一群のことであり、戦闘的体制と組織力とをもって、数の上では恐らく非常に優勢であるが、しかしまだ形を成さず、まだ定住していない住民の上に逡(ため)らうことなくその恐るべき爪牙を加えるあの征服者や支配者の一種族のことだ。実にこのようにして地上に「国家」は始まるのだ。(‥‥)彼らは運命のように、理由も理性も遠慮も口実もなしにやって来る。電光のようにそこに来ている。余りに恐ろしく、余りに突然で、余りに説得的で、余りに「異様」なので、全く憎いと思うことさえできないほどである。彼らの仕事は本能的な形式創造、形式打刻である。(‥‥)彼らの出現する所にはある新しいものが、生きた支配形態が成立する。そしてこの支配形態のうちでは、諸部分や諸機能はそれぞれ限局されつつしかも関係づけられており、また全体に関して「意味」を孕(はら)んでいないものには決して場所を与えられない。

われわれが生きている現代は、普遍主義や性の解放といったわけのわからない言葉を取り入れているにもかかわらず、たえずさまざまな仕切りを作り出しては、それをほぼいたるところに撒き散らしているのです。

 全地表を国家が覆い尽くした現在、地球人にとって国籍を持つこと、いずれかの国家に属していることは自明なことである。しかし、現在のような国家集合体が成立する以前、国家や王国という捕獲装置から常に逃れ続け、ときにそれに攻撃を加える「野蛮人」がいた。ノマド遊牧民)である。彼らは、条里化された領土内に根を張って定住することを拒み、草原や砂漠などの「制限も禁止もない滑らかな空間」 を移動し続けていた。しかし、理性の光が全世界を照らし出す過程で、国家は彼らを「平等主義」の名の下に捕獲し、国籍を与えた。いわく、「国籍がないとあなたは存在しないことになり、様々な権利を侵害され、不平等な扱いを受けるでしょう。だから、あなた方にも国籍をあげましょう」という訳だ。その傍らで地球は条里化されてゆき、ノマドの移動空間は完全に失われた。確かに、現在も遊牧生活を営む人たちはいるが、彼らも今ではいずれかの国の国民であり、その移動空間は制限と禁止だらけである。だから、この世にノマドはもう存在しない――はずである。いや、実際その通りだろう。だが気をつけなくてはならないのは、ノマドはそもそも存在しないということだ。彼らはどこにも根を張ることなく、ひたすら移動し続けている。だから、如何なるコードも定義も、彼らを捕らえその枠の中に定住させておくことはできない。「ノマドとは〜である」と言った瞬間に彼らはもう既に、この定義かをすり抜けて、遠い彼方を走っているのである。どれだけ言葉を尽くして彼らを書き留めようとしても無駄だ。われわれにできるのは、「せいぜいその輪郭を描いたり、示唆すること」 くらいなものである。彼らは、国家の捕獲装置やあらゆるコードから常に逃れてゆく。そういう意味で、ノマドは「絶対速度」 を持っている。俊足な彼らは、地中深くに根を張って存在することなどできない。ノマドとは言わば、原理的な不在者のことなのだ。
 国家はこの捉えようのない者たちを恐れる。なぜなら、捉えようがないゆえに、何をしでかすか全く予測不可能だからだ。そこで何とかして彼らに「形式打刻」し、それがうまくいかない場合には排除する。だが、国家は「一つの断絶、一つの飛躍、一つの強制、一つの不可避的な宿命として現われ」る ので、われわれは形を与えられることの暴力性に気付くことも、疑問に思うこともないし、むしろそれを「良きこと」として、率先して受け入れるのだ。かくして、「私」という確固たる型を構築し、その型に合わせて自らを造形するという自虐的行為に誇りを抱く、「アイデンティティパラノイア」なるものが出現する。そして、様々な対象を呈示しながらそれらに同一化するよう、われわれに要求するのが、「二進法の機械」 である。「お前は本当の自分を知っているか? 知らないって? それはかわいそうに。では、どうやったら見つけられるか教えてやろう。簡単なことだ。質問に答えればいいだけさ。男か、女か? 大人か、子どもか? 白か、黒か? 右か左か? 金持ちか、貧乏か? 邦人か、異邦人か?」。四方八方から迫り来るこのコード化の機械に従って確固たるアイデンティティを手に入れた人々は、自惚れた笑顔を浮かべながら、「一体君って人は、自分のことを知っているのかね? 私のように本当の自分を発見したのかね?」と問い質し、自らも二進法の機械と化す。
 また、国家権力の二進法を批判し、「第三の項目を!」と息巻く人々もいて、彼らはその願いが叶うと「これで、国家の悪は是正された」と涙する。だが、項目を幾つ増やしたとしても、二進法の機械は作動し続けている。「男でも女でもないなら、オカマかオナベか、ニューハーフか、それとも‥‥?」といった具合に、「最初の分割に入っていなかった諸要素間の選択肢」 が生み出さているだけなのだから。結局のところ、権力の悪を叫びながらコードの細分化に勤しむ人たちも、アイデンティティを構築せよという国家の要求に素直に従っているに過ぎないのだ。
 アイデンティティパラノイア。それは、殻に自閉することで、異なるもの、未知なるもの、ウンハイムリッヒなものを弾き飛ばす、保守的な故郷熱愛者である。彼らはある対象やカテゴリー、役割に自己を同一化することで、自身の可能性を削り取る。「あたし、文系だから数学って駄目なのよね。」「どうせ、カエルの子はカエルさ。」パラノイアたちは、例え外の世界を知ったとしても、「私が安らげるのは故郷だけだ」と言いながら、渋い顔でそそくさと自己の鋳型の中に戻って行ってしまう。彼らは、ノマドの笑い声には耳を塞ぎ、未知なるものを前にすると、恐れのあまり、ろくに見もせずに目を塞いでしまう。そんな彼らが、グローバル化と呼ばれる現象によって、ウンハイムリッヒな者がやすやすと共同体の中に入って来ることに耐えられず、ただひたすら排除し続けるのは当然のことと言わねばならないだろう。
 だが果たして、国家に根を張り、その型に嵌り込む――それも自分の身を変形させてまでして――必要など、あるのだろうか? 恐らく、国家への愛と忠誠を誓う人にとってはそうなのだろう。彼らはそもそも、鋳型に自閉することが窮屈だということさえ知らない。だが、国から与えられた鋳型から逃れていった「現代のノマド」、アクショーノフの言葉に耳を傾ける人ならば、そんな必要がないことを知っているだろう。しかしながらわれわれは、一体どのようにして迫り来る二進法の機械を退け、同一性の地獄に陥るのを回避すればいいのだろうか? また、どうしたら、生まれながらに型を知らないぽんちゃんを「故郷のない、帰属意識のないかわいそうな子」という境遇に押しやらないで済むだろうか?

第二節 ノマドになること

 言うまでもなくわれわれは、右へ倣えと今すぐ国籍を捨て、アクショーノフのようになることはできない。第一、日本の法律では国籍は放棄できないし、そんなことをしても彼と違って無国籍を享受することなどできないだろう。むしろ、今まで慣れ親しんで来た、当然のように得ていたメリットがなくなるだけで、却って生活が苦しくなるだけだ。また、無国籍の人に誰彼構わず、「あなたって、ノマドですね。良いですね」などと言うのも馬鹿げている。なぜなら、パレスチナ人のように無理矢理故郷を追われ、それ以来、どこにいようとも排除の対象となっている無国籍者もいるのだから。要するに、全ての無国籍者がノマドである訳ではないし、われわれが国籍を捨てた瞬間にノマドを名乗れる訳でもない。そもそも、ノマドは「=」という記号を、同一化の装置を吹き飛ばし、如何なる定義からも逃れてゆくのだから、「誰彼はノマドである」と言うことはできない。だから、「アクショーノフはノマドである」というのは厳密に言えば間違いだし、「私はノマドだ」と言える人も誰一人としていない。ノマドは、同一性の原理や存在といったものではなく、「生成変化」の次元に関わるのだ。つまり、「ノマドである」ことはできないが、「ノマドになる」ことは誰にでもできる。
 アイデンティティパラノイアたちが日々、自分を鋳型に閉じ込め、立派に仁王立ちするのに対し、ノマドはあらゆる鋳型から翻身して、留まることなく流れ続ける。だから、二進法の機械は、如何なる項目にも身を落ち着けず、それらの間をすり抜けてゆく彼らを前に途方に暮れ、選択肢を細分化させることで、何とかノマドを捕獲しようと試みる。「どっちでもない」し「どれでもない」ノマドにとって、それが如何に虚しいことかも知らずに。国粋主義者たちはそんなノマドたちを「けしからん」と追い立て回し、同一性の原理を受け入れるよう迫るだろう。だが逆に、ノマドがそうした人たちを咎めることはない。それは恐らく、ノマドになることは「難易度や理解力の問題ではまったくない。(‥‥)音や色や映像のようなもので、強度があなた方に合っているかどうか、通じるかどうか」 によるのみからだ。根拠のない好みを人に強要できないように、ノマドになることを誰かに押し付けることはできない。そもそも、変化し続ける人は、一定の状態に留まる人に構っているくらいならどんどん先へ行ってしまう。例えば、「不調」ながらも四年連続で年間二百本安打を超えてみせたイチローはこんなことを言っていた。「バッティングと言うのは常に動いているんですよ。(‥‥)だからそれが、バッティングに終わりがないという所以でしょうね。」「常に意識することの“常”が動いて行く。だからこうすれば絶対大丈夫、というのはないんですよ。」 言うなれば、イチローのバッティングは、フォームならざるフォームであり、日々変化し続けているのだ。そして、彼の強さに秘訣があるとすれば、それは、一定の型の中に留まることが決してないということだろう。両手に持ったボールのほんの僅かな重さの違いさえも感知するほど微細な差異に敏感な彼は、今まで経験したのと同じ試合、あるいは打席が存在しないことをよく心得ているのだろう。同一な打席が存在しないのならば、全ての打席は毎回新しいし、バットの振り方も毎回異なる。イチローは強さに方程式がないことを知っている。だからこそ、フォームを固定化させそこに留まることなく、次々と変化し続ける。かくしてわれわれは、どんどん先へと突き進む彼に追い付くことができずに、シーズンが終わった後、スローモーションの映像を見たりすることで、辛うじてその変化の軌跡を辿ることくらいしかできないのだ。
 もちろんわれわれは、イチローになることも、アクショーノフになることも、ぽんちゃんのような完全な無国籍者になることもできないし、なる必要もない。そうではなく、アイデンティティの鋳型を溶解させ、ノマドになること、自己を生成変化に導くこと、それだけが必要なのだ。そしてそれは、誰にでもできる。とは言え、自分という殻の外を、異なるものを、ウンハイムリッヒなものを恐れるのもまた当然なのかも知れない。未知なる外の世界は不可解で、何が起こるか予測不可能である。だから、途轍もなく危険に見えて、不安を誘わずにはいられない。何があるか分からないし、ひょっとすると何もないかも知れない。自分の知っている常識や規範(コード)は全く通用しない。お気に入りの食べ物も、くつろげるソファも、我が家もない。しかし、想像を絶するほど不味い食べ物に出会う可能性は同時に、全く新規な、度を越した美味しさに出会う可能性でもある。要するに、外の世界は未知であるがゆえに、無限の可能性を孕んでいるのだ。異郷で知った美味しさやそれを発見したことの喜びは、単調で何の変哲もない日常では決して経験できない。あり得ないところで、あり得ないものに出会う新鮮な驚きや嬉しさ、素晴らしさ――。こんな風に考えてみると、ウンハイムリッヒはもはや「不気味」ではなくなり、「魅力」へと転化する。既知の、ありふれた、馴染みのある世界に同一化し腰を落ち着けるか、それとも、異なるもの、ウンハイムリッヒなものに導かれて外へと旅立つか。恐れを押し退ける好奇心を胸に未知の可能性に身を委ねるとき、我が家を限定しないとき、われわれは安らぎや「お袋の味」が、故郷だけではなく、そこかしこにもあるのを知るだろう。
 確固たる帰属意識を作り上げ、それに固執するのではなく、アイデンティティから身を引き剥がし、必要とあらば忘却すること。われわれに必要なのは、「本当の自分」を探し求める自己啓発セミナーでも自分探しの旅でもなく、「公衆健忘所」 だ。今度また誰かに応援対象についてとやかく言われたり、同胞を応援しない者に嫌悪感を示す人がいれば、「あら、私って無国籍なのよ。だから日によって応援する国が変わるのよ」とさらりと言ってやろう。あるいは、場合に応じて何人(なにじん)にでもなってしまおう。「日本人」というフィルターを通してしか自分を見てくれない人がいれば、ことあるごとにその人のイメージを裏切り続け、自分に嵌められた日本人という鋳型をひび割れだらけにして、そこから脱出すれば良い。偏見を持つ人に憤慨するのではなく、彼らのコードに水漏れを起こそう。異常なことを涼しい顔でやってしまおう、身体を硬直させ一点を凝視し続ける「正常病者」 たちの脇を軽やかに通り抜けながら。

第三節 ノマドとコードの関係

 ノマドはあらゆるコードを逃れてゆくが、文字や文法といったことばの秩序、規範(コード)を知らずに読書の快楽を得ることができないように、コードそのものを否定する訳ではない。そうではなく、コードを知り尽くし、強奪すらしてしまうのだ。既存の語や文法に従いながら、突拍子もない組み合わせで全く新規な語を創り出し、コード化され得ぬ何ものかをコードの下に流通させる。互いに異質である語を連結させたり、新しい使用法によって、既存の意味の枠を決壊させる。定義の不当な拡張あるいは限定。「何かを正確に示すには不正確な語しかないのだ。異常な語を創ろう。ただし、それをもっとも普通の用い方で、ごく普通の事物と同じようにそれらの語が示す実体を存在させることによって。」 一冊の本は言語というコードによって書かれている。だがもし、ある書物や文章からインスピレーションを得ることがあればそれは、書き留められていた、一時的にコード化されていた何ものかを解き放ち、そこに生じた流れに身を投じているのだ。コードの下を流れる何ものかを感知するためには、文字通り「行間」を読まなければならない。
 われわれは、国家公認の「正しいコード」たる国語の中で、秘密の言語、仲間内の言語、マイナーな言語、暗号を創り出さなければならない。あるいは、「自国語そのものの中で外国人のように話すこと」 。そうすることで、コード化不可能なものが流れ始め、「すべてのコードをごちゃ混ぜに」 してしまえるのだ。「秘密」だとか「仲間内」、「暗号」と言うとまるで自己閉塞しているようだが、それらの言語は共感を寄せる者を決して排除しない。円環は閉じていないどころか、誰に対しても開かれている。コードの内に塞き止められていた流れを、漏洩させること。「あたかも外国人であるかのように言語を話すのではなく、自国語の中で異邦人たること」 。異常な言語に注目し、自らもそのことばで喋り、書き、考えること。異質なものを組み合わせること。「正しい日本語」という捕獲装置から、日本語を逃走させること。「突飛で不躾な連結によるショック」 を生むこと――。
 二進法の装置は増々精密になり、われわれを確実に捕まえようと、あちこちからピンポイントで攻撃を仕掛けてくる。ノマドは今日、絶滅の危機に瀕しているかも知れない。だがどんなに精度が上がろうとも、動き続け、決して点になることのないノマドの逃走線を殲滅させることはできない。また、どれほど捕獲の編み目が細かくなったとしても、格子状である以上、必ず隙間は存在する。どれほど小さくとも、ノマドは間さえあればそこをすり抜けてゆく。(定住者は、縦糸と横糸からなる織物しか作れないが、ノマドたちは〈反織物〉、隙間のないフェルトを作ることができるのだ 。)だからこう断言してしまおう。どんなに国家やそれを愛するアイデンティティパラノイアたちが強大な力を手にしようとも、ノマドは死に絶えることなくこれからもずっと生き続ける、と。

第四節  結論に代えて

 君がそれであるところのものとなれ。君の上に投げつけられた肩書き、社会的分類の中での範疇化にすぎない、あらゆる同一化を逃れよ。君はこの番号ではない、このうわべではない、この化石化した言語ではない。君がそれであるところのものになれ。君をつらぬく諸力に道を与え、扉を開けよ。君がそれであるところのもの、それは君の中にはない。君がそれであるところのもの、それは他者へと生成する君の能力、君以外の他者を迎え入れる能力なのだ。
 君がそれであるところのものとなれ、わたしとはひとりの他者なのだ。(強調、引用者)

 現代人は、定住し、国家という装置に繋ぎ止められた確固たる存在として、アイデンティティを持って生きることを「良い」こと、「幸せな」ことだと信じ込まされている。だから、如何なる国家とも無縁なぽんちゃんを前に、不安になってしまったりするし、アクショーノフの「無国籍って良いですよ」という言葉を肯定するのを躊躇し、首を傾げては訝しげな目を向けてしまう。
 ぽんちゃんを「不幸な子ども」、「かわいそうな子ども」に仕立て上げるのはあくまでも国家に追従する定住民たちだ。また彼は今後、無国籍であるがゆえに様々な不便を蒙るだろう。だが、この少年に不便を強いるのも、やはり国家なのだ。彼を取り巻く人々がそのことにさえ気付けば、文字通り何ものにも捕われていないぽんちゃんが孕んでいる、無限の可能性が死産させられることはないだろう。また、国というものに帰属しないことを自らの意志で選択したアクショーノフの言葉は、無視してしまえば、有国籍者であることに疑いを持つことなく、それまでと変わらぬ生活を送ることができる。しかし、彼の異常な言語に耳をすませてみると、われわれは存在と同一性の原理から引き離され、ノマド的思考の次元へと移行する。外の世界へと旅立つこと、異なるものに触れること、そしてそのことで、自明な、常識的なことに少しでも疑問を感じること。そこからノマドへの変身が始まる。だとすれば、有国籍者であること、存在することをもはや自明視せず、それらが「良い」ことだと素朴に信じることもないわれわれは、既にノマドへの生成の第一歩を踏み出しているのだ。



-参考文献

-書籍以外の参考資料