レオナルド・ダ・ヴィンチ


■始めに+お願い
 講演会、若桑みどりレオナルド・ダ・ヴィンチ 真の謎を解く」に行って参った。若桑氏の著作は一つも読んだことがないけれど、面白そうな本をたくさん書いていらっしゃって、何時の間にか名前だけは知っている。「万、万、万が一若桑先生を知らないという人、1%の人のため」に向けてなされた司会者の紹介に依ると、最近は、日本の近代化を促進するための「女性像」が如何にして作られていったかなど、ジェンダー論的かつイコノロジー的観点から、日本の近・現代を読み解いているんだとか。絵画、イコノロジーなどには興味があるので、いずれ著作を繙いてみたいものだ。それで、折角行って来たので、講演の内容をレジュメと自分のメモを元に、まとめておくことにする。
 あくまでもメモが頼りだし、主観も織りまぜて行く予定なので、若桑氏の話の再現にはなりません。その点を了解した上で読んで下さい。


■『ダ・ヴィンチ・コード』への苦言
 若桑氏はまず、『ダ・ヴィンチ・コード』の流行に「歴史家」「美術史家」として、苦言を呈す。この作品はあくまでも「小説」であり、「虚構」に過ぎない。にも拘らず、この「非-歴史的フィクション」が、「歴史」の名の下に人気を博している。だが彼女は、「レオナルドの謎は、こんなもんではない」と言い切る。(ネタバレになるが、マグダラのマリアとイエスの間に子どもがいるとか、そういう大胆なことがレオナルドの作品に隠されている、と仮定した話みたい)そして『ダ・ヴィンチ・コード』への反論を開始する。まず第一に、レオナルド・ダ・ヴィンチについて研究する歴史家は、彼のことを「ヴィンチ地域出身の」を意味する「ダ・ヴィンチ」などと略すことはあり得ない。また、例え史実に基づいているとしても、この小説で提示されている数々の仮説には、何の学問的裏づけもない。レジュメから「学問的見地からの批判」を引用しておこう。「資料的裏付けなし」、「仮説と推測でストーリーを創作」、「美術史理論ならびにキリスト教図像学の無知」、「レオナルド研究の成果を無視」。そして結論として、「これは『小説(虚構)』であり真実ではない」と書かれている。では、美術史家の研究は「真実」なのか? とちょっとつっこみを入れたくなる。恐らく、若桑氏にとっての「真実」とは、「科学的証拠」によって裏打ちされたもののことを言うのだろう。科学的あるいは学問的真実の崇拝者――「真実・パラノイア」とでも言おうか――に反論するのは面倒なので、彼女のこの主義については素通りしておく。
 何はともあれ、『ダ・ヴィンチ・コード』の著者であるダン・ブラウン氏が一言、「これは小説である」と言ってくれれば問題はないのに、冒頭には、「この小説における芸術作品、建築物、文書、秘密儀式に関する記述は、すべて事実に基づいている」と書かれているそうで、若桑氏は怒りを露にする。これはもう、一歴史家として許せん、という訳だ。しかし、すぐ気付いた人もいるだろうが、この文章、そもそも主語が「小説」じゃんか。別にブラウン氏の肩を持つ気はないし、原文を確認した訳でもないが、要するに、作中に登場する「モナ・リザ」も「最後の晩餐」もレオナルドが所属していたとされる「シオン修道会」も、殺人事件が起きる「ルーブル美術館」も、実在しますよと念を押しておきたいだけなのでは? だが、この文章を読み違えたまま小説を堪能した大勢の日本人観光客が、作中で起きる殺人事件をも「事実」であったと思い込み、ルーブル美術館を訪れて「遺体はどこにあったんですか?」などと聞くのだそう。また、『ダ・ヴィンチ・コード』のヒットにあやかり、ルーブル美術館は改装を始めたり、映画版の撮影に協力したり、また、日本テレビの資金提供で「モナ・リザ」を特別個室に移すなど、尋常でない対応を見せた。他にも「ダ・ヴィンチ・ノート展」という、キュレーターの学術的常識を疑いたくなる、『ダ・ヴィンチ・コード』の人気にあやかろうとするかのようなタイトルが付いた展覧会が大盛況となった。


■なぜ、『ダ・ヴィンチ・コード』が流行るのか?
 しかし、この大ヒットとそれに伴う膨大な資本の動きを批判していても仕方がない。実は、このレオナルド流行現象から世俗的、大衆的、資本的な力の肯定的な面を見い出せる。というより、この人気の原因に「パラダイム・チェンジ」がある。近年、(レオナルド関連の?)美術全集や研究書が全く売れない。要するに、これまでの決まりきった、正統学問的な、規範的な、教科書的なレオナルド像はもう、人々の興味関心を生むことはない。だが、レオナルドの異教主義的、異端的な態度を明らかにすることによって可能となった、『ダ・ヴィンチ・コード』の「神秘主義的フレーバーのかかった殺人サスペンス」は多くの人を惹き付けて止まない。ここで言う「神秘主義」とは、近代科学による説明が不可能なもの全般を指す。そして、この神秘主義は異教主義が中心になっている。この辺の繋がりがよく分からなかったのだが、とりあえず、「異教主義」について見てみよう。レジュメから引用する。「西欧における『異教』とは、唯一の男性神の絶対的な支配下にあるユダヤ教キリスト教、回教ではない宗教のこと」だそうだ。ここに一つ、フェミニスティックな発想が見て取れる。「男性神」というやつだ。だが、「神は男か女か」論争は不毛なので、これもまた、素通りさせてもらう。三大宗教に対する異教の特徴は以下の通り。参考文献はP・ジョーンズ、N・ぺニック『ヨーロッパ異教史』(山中朝晶訳、東京書籍、2005年)だそう。(この書物は、西欧においてキリスト教が実は絶対的でなく、異教的な要素が社会や人々の基盤に残っていたことを明らかにした、エリアーデという宗教学者の研究が下図になっているのだとか。キリスト教にとって最大の祭りであるイースターやクリスマスに、様々な異教的要素が含まれていることを考えると、この手の研究への興味が一層湧いて来る。)

1.単独唯一の神でなく、複数の神々を信仰する。
2.男が主導でなく、男女が主導。
(レジュメには、「男女の神々を信仰すること」とあるが、口頭では「主導」とか言ってた気がする。)
3.主神がしばしば女神である。(オリニック期?、グレートマザー像など)
4.自然界・物を人間のためにつくられた人間界の下位と見なすのでなく、人間の一部と見なす。

(日本の神道は、権力に悪用されただけで、その考えはこれらのうちの、1と4にあてはまるそうだ。)

 ブラウン氏とは見解の違いはあるものの、レオナルドが「男性神」でなく女性神に惹かれていたこと、異教への興味があったことは、事実であるそうで、これは、スケッチや手記など多くの資料によって「客観的かつ科学的」に明らかなんだとか。また、異教への関心以外にも、自然科学者であり唯物論的世界観に立つという点に於いてレオナルドは、カトリック教会が権力の中枢を担っていた当時、完全な異端者であったと言える。唯一神の世界の否定者たる彼は火刑になってもおかしくないほど、危険な思想の持ち主だったのだ。ブラウン氏はこの点を言わば不当(不統)に誇張しているのだが、恐らく、こういった異端性がレオナルドの魅力を増しているのだろう。
 そしてこの異端者、レオナルドの人気に呼応するかのように、昨今は新異教主義の興隆ともとれる、ヒンドゥー教(女神崇拝の宗教)の流行、換言すれば(?)アジア・アフリカの復権が見られる。これはもしかしたら、ユダヤ教キリスト教イスラム教的男性主権社会の終焉を物語っているのではないだろうか? 若桑氏は明言をしていなかったが多分、「今われわれは、これまでの男性主権的世界観から脱する、パラダイム・チェンジの最中にいる。このグランドセオリー(物事の理解や意味付け、位置づけの大きな枠組となる理論)の転換を物語るのが、異教や、レオナルドの異端的一面への人々の関心の強さである」ということなのだろう。若桑氏の中にあるだろう二進法を図式化してみると以下のようになる。  

ユダヤ教キリスト教イスラム教に基づく、男性(神)支配の世界。
近代国家の枠組、システムの根幹としての、男性主権社会。権力の側。
→こちらの側が行き着いた先は、大殺戮の時代。戦争するわ、環境を悪化させるわで、明らかな失敗。種としての人間の生存が危ぶまれている。

対立、対抗

三大一神教以外の異教主義。(科学主義もこっちに入るのかな? どちらかというと、近代科学は上に入ってなきゃいけない)
反-権力の側。
レオナルドや彼に惹かれる人々、最近の新異教主義(中でもヒンドゥー教や女神崇拝の宗教)の流行、アジア・アフリカの復権

 ご本人が見たらお怒りになるかも知れないがこのくらいの図式化は許されそうなお話だった。そして言うまでもなく、若桑氏の立場は後者になると言っていいだろう。(因みに、私はどっちでもないので、悪しからず。)また、支配者の先祖が女性なのは、先進国の中では日本のみだと言っていた。平塚雷鳥は「原始、女は太陽であった」と言って潰された(?)が、男権社会の今の日本でも、この事実は隠しておかねばならないとされている。だから、あまり大きな声でこのことを言わない方が良いんだとか。


■科学者としてのレオナルド
 さて、レオナルド本人の話に移ろう。彼が生きていた時代、唯一絶対の神が7日間(正確には6日か?)で世界を創造したこと、ゆえに全て(人間の存在根拠さえ)は神の意志に基づいていることは、絶対的な真理であった。そんななか彼は、「宇宙は物質からなり、物質を生成させる根本原理が存在し、その法則、原因結果に基づいて万物が変化生成する」(レジュメより引用)ことを信じる、「科学者」であった。彼は教会のドグマではなく、「客観的、実証的、合理的なものを真理と見なす」(同上)。だからこそ、徹底的な自然観察や実験によって、原理や法則を見い出そうとし、原因と結果の検証を行った。レオナルドが捕えたかったのは、永遠不変の神の世界ではなく、万物の「変化」である。
 ところで、14、5世紀のヨーロッパでは、スコラ哲学から天文学が生まれ、また化学や解剖学、身体医学などが登場し、実学レヴェルで教会とは異なる真実が教えられていた。こうした科学の興りによって教会の真理は揺らぎ、その結果科学を断罪する魔女狩りなどが流行った。レオナルドも15世紀半ばから16世紀を生きたが、「理性を持った個人への自由」など想像すら出来ないこの時代、教会の真理に楯突いて、自然や物理現象を科学的に語ることはそのまま死を意味した。そこで彼の科学主義的世界観は、メタファーや象徴によって、「さまざまな意味を内包する曖昧な記号」(レジュメより引用)としての絵画や、判読が困難な左手の鏡文字で埋まる手稿に隠されている。
 因みに、ミケランジェロも教会権力に反対する「サヴォナローラ(ルターの先駆者)主義者」であり、絵画の中に色々隠しているそうだ。そして、ミケランジェロやレオナルドがラファエロに比べて魅力的なのは、彼らが反-権力者であるからなのだという。って、「ラファエロは反-権力者じゃないから、その作品も魅力に欠ける」と言うこと? 作品の何に魅力を感じるかなんて、人それぞれ違う。絵画に対する個人の好みを、学問的知識によって正統化するのはやめて欲しい。  
 話は逸れたが、中世以来、ヨーロッパでは、神の(完璧な)創造物たる自然に手を加えるだなんてとんでもない冒涜だった。しかし、レコンキスタ前後、フィレンツェにはアラビア科学の知が流入した*1。彼らは、アリストテレスに倣い、全ての物質は四元素の結合によって出来ており、これらが分離すると腐敗や発火という現象が起きると考えていた。だから人間は、様々な物質の結合や分離、変容などを通して神の如く物を組成できる。言わばアルケオロジー的発想である。西欧の一科学者であったレオナルドにとって、この発想はとても魅力的だったに違いない。また彼は、人間と世界は照応(correspondence←フーコーに言及していたが、一瞬だったのでよく分からなかった)していて、互いに関わり合い、また影響し合うと考えた。そして、宇宙と人間の構造は類似していて、宇宙(或は世界)を巨大な人体だとした。これを「調和的世界観」と言うのだそう。
 繰り返しになってしまうが、何はともあれ、レオナルドはこうした異端的、反権力的な科学的世界、神無き世界を絵画の両義性や鏡文字などに隠し込んだ。だから、レジュメによれば彼の「手稿と絵画を解読することはレオナルドの真の思想を解明すること」になる。ということでこの後、若桑氏が解読した「モナ・リザ」の謎が明かされる。


■「モナ・リザ」の謎1〜「モナ・リザ」は肖像画ではない
 レオナルドは死ぬまでこの絵を手放さなかったという。その結果、彼が死んだフランスの城にこの作品が残り、フランス王室の所有になり、ルーブルの所蔵となったが、「モナ・リザ」のモデルは、誰なのか? 最初の説は、Giorgio Vasariという美術史家による「フィレンツェの市民、フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻、リザ」というもの。しかし、Vasariは作品を見ることなしに、伝聞によってこう決めつけてきまったのだとか。また他には、メディチの愛人だとか、イザベラ・デ・エステ、自画像など諸説ある。とにかくこの謎は多くの人々を刺激していて、この作品のフランス語のタイトルから、モデル探しをする人たちを「ジョコンドロジスト」なんて呼んだりするそうだ。このうち、イザベラ・デ・エステに関しては、確かにレオナルドに肖像画を依頼する手紙も見つかっている。だが、もし誰かの肖像画ならば、なぜ依頼主の元にないのだろうか? また、当時、肖像画には必ず描かれる人の身分が分かるキーワードが散りばめられていたそうだ。例えば、女性だったら夫に守られている証拠にまず何よりも指輪が描かれていた。それ以外にも、ネックレスなどのアクセサリーや「身分と貞節を示す結髪」(レジュメより)、服装、家具や居住空間の様子、家紋などによって、身分や地位が明らかになるようになっていたそうだ。だが、「モナ・リザ」にはそういった特徴を示すものが何一つない。髪は下ろしているし、アクセサリーは一つもない。服は豪華さとは無縁の土色。要するに、この作品は誰か特定の人物を描いたのではない、と若桑氏は結論付ける。
 自画像説については、若桑氏はかなり端折っていたため殆ど分からなかったので、後日ネットで調べてみた。どうやら、あの長い髭を生やした自画像のスケッチを反転させて、縦横の比率を変えないまま「モナ・リザ」に重ねると、顔のパーツが色々と一致するそうだ。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:Monalisa_Leonard.png)特に否定する気もないけれど、どうもサクっとうなずけない。レオナルドの他の作品でも、例えばあの変な動物を手にした夫人の絵でも試してみて欲しい。それに、スケッチの自画像は、おでこの部分が大分はげ上がっているから、生え際は見ようによって一致もするし、ズレもする。
 とりあえず、皆が必死こいて「誰だ? 誰だ?」とやっているなか、「これは肖像画ではない、モデルはいない」と言い切ってしまう若桑氏は、格好良い。そして彼女に言わせると、この絵は背景こそが、それこそ「レオナルド・コード」を解読する上で最も重要なのだそうだ。


■「モナ・リザ」の謎2〜背景の分析
 レオナルドの地層や大地を変形させる水の力へのただならぬ興味は、膨大な量のスケッチや手稿からも明らかで、恐らくこの絵の背景のモデルとなった風景があったと考えられる。しかし、4つの「時間」が同居しているという点から、実在はしないという。4つの時間を、レジュメから引用してみる。

 1.右上:「豊かな海/険しい岩――原初の大地」
 2.左上:「空気と水に浸食された岩――時間の経過」
 3.右肩:「低い水/橋――ここにだけ『文明』が表示」‥‥小石とか、ちょろちょろとした小川
 4.左肩:「削られた山/涸れた水――大地の死 終焉」‥‥赤く干上がっている

 レオナルドは、この絵の背景に「大地の生と死」を描き込んだという訳だ。手稿に依ると、彼はある日、山の上で貝殻の化石を発見する。そして、「ノアの洪水を否定 貝殻の重さからみて洪水がこれを山上にもってくることは不可能 唯一の答えはかつて山が海中にあったとすること」(レジュメより引用)と考え、創世記を否定した。そして、先ほどの「調和的世界観」に基づいて、人間に血液がなければ死んでしまうように、水脈がなくなれば大地が死に絶えると考えた。
 ここで、レジュメに引用されている彼の手稿を一部、抜き出しておく。やっぱりレオナルドは凄い。「地球の身体は、動物の身体に類似しており、水脈がはりめぐらされ、その水脈はすべてつながっている(血液の循環を発見したのはレオナルド)。水脈には地球自身と地球上に住むすべての生物のための栄養と活性源がたたえられている。水脈は水源である海から発し、さまざまな過程を循環し、それ自身が破壊した水脈を通って海にかえる」。(レスター稿本、33フォリオ)「水は高い山々の頂きを食い尽くす。巨大な岩を丸裸にしたり移動させたりする。それは海を昔の磯から追い払う。高い土手を崩壊させる。・・・時には生命を与え、時にはあおれ(「それ」のタイプミス?)を奪う・・・時とともに万物は変化する」。(アランデル稿本、57r,59r)
 聖書にある創世記を、自然を観察することで否定したレオナルドはさらに、水脈によって生きる地球がやがて終焉すると予測した。そしてこれにより彼は、イエスの復活によりキリスト教徒が救われるというメシア思想をも否定することとなる。


■「モナ・リザ」の謎3〜組み紐紋様
 レオナルドは、組み紐文様を好んで描いたそうだ。中でも、六角形の無限組み紐文様を彼は、想像上の「ダ・ヴィンチ・アカデミー」のエンブレムとしていた。(“leonardo da vinci knot pattern” でイメージ検索をすると出てくる。)こういった文様はケルト文化や、ドゴン族(アフリカ?)にも見られるが、どちらにおいても水を表していたんだとか。講演も後半で超特急の説明だったし、レジュメが一頁脱落していたようで、この辺のことについては詳しくは分からない。だがとにかく、レオナルドも水の「無限連続的なダイナミズム」を、この組み紐文様で表していたんだとか。そしてこの文様が、「モナ・リザ」が身に纏っている服の胸元にも描かれている。
 若桑氏は時間と戦いながらも、この水を象徴する模様+この女性の結っていない流れるような髪+大地の色の服+妊娠しているという説もある(となると、生と死を同時に孕み持っていることになる、と言っていた気がするが記憶が定かではない)、などから、この女性と大地はコレスポンダンスしているとし、「モナ・リザ」は、「生命の組織と原理」を、「大地と人間の生と死」を表しているのだと結論付ける。
 そして若桑氏は一気にまとめる。レオナルドは、女性に全ての生成と死を表した。男ではなく女性こそが、生命と死を共に生む人間の代表である。宇宙と並び立つのはマン、ホモ、オン(man, homo, onかな?)ではなく女である。生命を生み出す女こそが、大切なのだ。そして、こういった考えからレオナルドは、女性を神格視していた。この点が、レオナルドが(女性を崇拝する?)「シオン修道会」のメンバーだったとするダン・ブラウンの根拠にもなっている。そして今後は、男よりも女、特に母性が特権的な地位を占める中でレオナルド研究がなされていかなくてはならない。母性に全ての根源を見る古代思想に近いところにいるのがレオナルドなのである。


■終わりに
 メモをしながら苦笑いしていたが、今こうして読み返してみると、吹き出さずにはいられない。いきなり母性なんてものが出てくるだなんて。ここに至るまでの、美術史家としての詳細な研究の成果はどこへ行ってしまったのだろう? 反-男性優位・崇拝を掲げて女性を優位に置き、崇拝することに何の意味があるのだろうか? 今まで男社会に踏み付けられて来た女性が、「男でなく、女を!」と叫びながら女優位の世界を夢想するのは勝手かも知れないが、男女に優劣をつけようとする発想そのものが結局は、男尊女卑であったりその逆の女尊男卑を生む。って、どうしてレオナルド・ダ・ヴィンチの話を聞きにいって、フェミニズムへの嫌悪感を新たにしなくちゃならないんだよ!?「今の男性優位の社会においては、全てに男性的な眼差しがあるのです。それを是正しなくてはならないのです。だからフェミニストはいつでもどこでも戦わねばなりません」ということか? まるで、質の悪い精神分析みたいだ。精神分析と言えばフロイトは、モナ・リザの笑みをレオナルドの母へのコンプレックスか何かで説明しているそうだ。フェミニズム精神分析は仲が悪いと聞くけれど、切り札の乏しさという点に於いては見事なまでに親和している。
 ダン・ブラウンは、『ダ・ヴィンチ・コード』の登場人物に、「ダ・ヴィンチの意図がなんであったにせよ、<モナ・リザ>は男性とも女性とも言いきれません。両性を備えたかのような微妙な趣があるんです。男女の融合というか」と言わせているらしい。そしてこの「男女融合説」に基づいて、左半分が男、右半分が女だとする仮説をネットで発表している方もいらっしゃる。この説、なかなか面白いのだが、絵の中に「性器が描かれている」という点には大いに納得が行かない。フロイトが聞いたら歓喜するだろうけれど、レオナルドは、そんなに破廉恥じゃないと思う。ただ、上になっている右手のふくよかさに比べて、左手が角張っているのは気になる。これは確かに、男と女の手の差なのかも知れない。ただ、この素人目にも明らかな違いは、この作品が未完成だからだとする人もいるようだ。しかし、男女融合説というか、どっちでもない説に立つと、眉毛がないという謎をクリアしやすくなるのかも知れない。
 結局、十人十色の解釈がある。今回聞いた若桑氏の、モナ・リザにモデルはいないとする発想の転換は素敵だし(そもそも、モデルが分かったところで、何だというのだろう?)、背景に関する考察もレオナルドの自然観察の成果や世界観が解き明かされていて大変に面白い。けれども多分、答えなんてないんだろう。様々な謎解き、意味付けも良いけれど、あの小さな絵は言わば無限の謎だ。あーでもない、こーでもないと意見を出し合い、時には醜い「正しさ」の権力闘争を繰り広げる人々を前に、モナ・リザは「どれも正解よ。おめでとう。でも正解なんてないのよ」と、永遠に微笑み続けることだろう。

*1:アラビア科学についてはhttp://d.hatena.ne.jp/schaumlos/20050725を参照