戦乱のイラクを垣間見る


 去年(2005年)に書き始めた文章。仕上がっていないのが一杯あって、むずむずするなぁ。


 戦後60年。奇しくも衆議院選挙で、「普通の軍隊」を持とうという方針の自民党が圧勝したこの年から、一体あと何年の間、「戦後」の「戦」が「第二次大戦」を意味していられるのだろうか。
 2005年9月11日、イラク戦争前後のバグダッドの様子を映し出すドキュメンタリー映画、『Little Birds イラク戦火の家族たち』の上映会と、その作家を囲んだトークショーが、東京芸大で行われた。(フリーのビデオジャーナリスト、綿井健陽/映像作家、森達也/芸大美術学部先端芸術表現科教授、小幡和枝)フリーのビデオジャーナリスト綿井健陽は、イラク戦争が始まる前からバグダッド入りし、123時間分もの映像を撮りためた。それを編集したのが映画、『Little Birds イラク戦火の家族たち』だ。

Little Birds -イラク 戦火の家族たち- [DVD]

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 この作品に登場する映像の一部は、かなりメジャーなニュース番組に度々登場していたという。夜空を染める空爆の様子や、爆弾によって破壊されたバグダッドの街の様子、また、親しい者の死や取り返しの付かない傷を悲しみ、天を仰ぎながら泣き叫ぶ人びと。イラク戦争が始まってからというもの、この手の映像はすっかりお馴染みのものとなっている。だが、同じ映像とはいえども、『Little Birds』に登場するのは、我々の眼が消費している〈イラクの現状〉とは全く異なる。なぜなら、テレビで頻繁に見聞きする、ナレーションや文字によって飾り付けられ、長くとも10分程で丸く収まる一話完結編の分かりやすい物語など一つもないからだ。ナレーションがなく、五月蝿い派手な文字も出て来ないこのむき出しの作品は、観る者にひたすら思考と想像を強いる。
 スクリーンに映し出されるのは、イラクの一市民だ。どこの馬の骨とも知らぬ、ビデオカメラを持った一日本人(綿井のこと)に向かって、開戦前のやり場の無い不安を叫び散らし、背を向けて去って行く男。元イラク兵の男性は、軍隊からカラシニコフを一丁持ち出して来て家に置いていて、「これで敵が来たら撃ってやる」と息巻く。だが彼はちょっと頼り無さげな小学生の娘を持つお父さん。カラシニコフがまるで釣り竿か何かのように立て掛けてある手前で、娘のユニセフのリュックの中をガサゴソ。よく覚えてないのだけれど、「忘れ物しちゃ、だめじゃないか」みたいに、鼻で笑っちゃうくらいに些細なことで真剣に娘を叱っている。銃とユニセフのリュックの極自然な同居。これを作者の綿井は、「こういう対照的なものが好き」みたいなことを言っていて、私も「うんうん」と頷いていたのだけれど、もしかしたら、この図は全然対照的ではないのでは、と今思い立った。なぜなら、一目でユニセフ支給と分かるちょっとダサめリュックは、戦地か貧困地帯といった所にしか存在し得ないからだ。ユニセフや国連関連の介入するところ即ち銃のあるところ、とまでは言わないが、援助を必要とする地域が、同時に危険地帯であるという可能性はかなり高い。だから、武器とユニセフのリュックが同じ空間に溶け込んでいるというのは、むしろ当り前だと言わねばならないのかも知れない。とは言え、戦時中にも関わらず娘の忘れ物か何かを本気で怒るというのは、ユーモラスとさえ言える矛盾に見える。
 ところで、国際援助の現場が如何に血なまぐさいかについて、アンジェリーナ・ジョリー主演の映画「BEYOND BORDERS」が参考になるかも知れない。
すべては愛のために~Beyond Borders~ [DVD]

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援助を必要とする国や地域の悲惨さの他、活動する側の、負の部分、汚い部分、どうしようもないジレンマ、裏取り引き、血や死、自己利益の追求に燃える役人などを、美化したり消臭したりせずに描いている。こういうことを人々に伝える作品が、必ずしもノンフィクションである必要はないので、私は、この映画で描かれていることが「事実」であるかどうかは問わない。とはいえ、現場を知っている人たちには「んな風にはいかねぇよ」と思われているのかも知れない。だがこの作品が、とんちんかん過ぎる邦題、「すべては愛のために」や売り文句「一度だけ抱かれた男に命を捧げる。たとえ道に背いた愛であっても」(こういうタイトルや売り文句が「人を呼べる」と配給会社に思わせちゃってる日本の民衆も、バカ過ぎる。日本は広告次第でいくらでも観客数を増やせるので有名らしく、例えばアメリカで空振りした映画が日本で大ヒットするのをみて、アメリカ人も飽きれ気味という話をどこかで読んだことがある)が彷佛とさせる単なる不倫物語ではないのだけは確かだ。かなり真摯に作られていると思うし、主演のアンジーを養子を受け入れたり、UNHCRの親善大使になる程までに突き動かした深く重い作品であるのは事実だ。だから、エチオピアの難民キャンプを描くとき、俳優ではなく、ホンモノの難民をエキストラとして動員したことについて、「ホンモノの難民を“利用”してカネを稼ごうだなんて、あくどい映画だ」と憤っている人がいたら、真剣に同意した後、そんな意見があったことすら忘れてしまうという態度をとれば良いだろう。
 それにしても、この壮大な映画を「セレブな奥様が汗臭い行動力のある援助活動に携わる医師に惚れちゃう恋愛痴話」として宣伝してしまう日本の配給会社の無神経さ、愚鈍さは、映画を作った人たちに対する侮辱だとすら思えて来る。人妻でありながら、医師と恋に落ち、この人を追い掛けて家族を捨ててエチオピアカンボジアチェチェンへと赴くのだから、確かにラブストーリーでもあるんだけど、この二人には自分たちの恋愛を成就させようとしていない。もしそうなら、イギリスで静かに暮らせるように、お互い努力するだろう。そうは出来ないのが、この人たちの愛の在り方なのだ。二人の愛は自己中心的になれない、だからこそ、彼等は常に危険な地帯へと足を踏み入れて行く。それに、「彼に会いたい」なんて動機だけで紛争地帯へ自分の子どもを置いてまで行けるもんだろうか? 「彼女を彼の元に行かせる力こそが、愛なのだ」ということも出来るけれど、この作品が男女の不倫本位に描かれているのだとしたら、全然別の展開になっていたことは間違いない。
 『Beyond Borders』については以前から書きたいと思っていたため、すっかり『Little Birds』から遠ざかってしまった。実はこの作品を観てから既に半年以上経ってしまっていて、正直なところ細かいところは覚えていない。ただ今でも刻まれている感想が一つある。この作品で、愛する人を失った人が、文字通り泣叫んでいるのを観た時、ふと「この戦争を率先して始めた子ブッシュは、自分の子を失ったとき、これほどまで悲しめるのかな」と思ったのだ。あの低能、愚鈍、脳足りん自己中心的男は、荒れ放題の双子ちゃんを失っても悲しめない、ともすれば本格的に哀れな無味乾燥人間なのではないだろうか。文化の違いもあるのだろうけれど、人前にも関わらずあれだけ激しく悲しめるのは、失った人を愛していたからであって、それこそが愛の持つ鋭利な痛さでもある。ブッシュ・ワールドに愛がないのは明らかだ。
 同じドキュメンタリー、と言っていいのか分からないけれど、ドキュメンタリー映画としては私は『プロミス』の方が断然好きだけれど、イラクの大混乱が一層激しくなる今、『Little Birds』はやはり、観ておくべき映画の一つと言えるだろう。というのも、この映画を観る前と後では、イラク関連のニュースを観る眼が確実に変わるからだ。このことに関して、ゲストの森達也はこんな話をしていた。
 なぜ今、反戦運動が巻き起こらないのだろうか。長年、テレビ番組の制作に携わり、映画『A』や『A2』を始めとする、いくつもの優れたドキュメンタリー作品を世に送り出して来た森は、マスコミが流すこうした加工された映像を、「パッケージ化された情報」と呼ぶ。そして、自身が映像作家であるのを承知した上で、はっきりと言う。ベトナム戦争は、動画の数百分の一の情報量しか持たないスチール写真によって終結へと導かれた。だが現在は、「パッケージ化された情報」が氾濫している。この情報過多が、イラク戦争を終わらせるムーブメントをひき起こせない理由の一つである、と。出来事の一瞬しか見せない写真は、その瞬間の前後を、見た者に思考させ喚起させる力がある。だが動画は、飲み込み、消費するだけであるし、加工され、見やすく分かりやすくなったパッケージ商品は、戦争のリアルさを減退させていく。更には、メディア技術が発展すればする程、戦争は矮小化され、人びとの行動が喚起されなくなっていく、と。以前、(確か)湾岸戦争の報道が恣意的にスポーツ中継風にされていたことを紹介するドキュメンタリー番組を観たことがあるが、その傾向は今でも変わらず、イラク戦争は本当にゲームの様にして報道される。
 また森は、アブグレイブ収容所での虐待が表沙汰になり、人々が動揺したことに関して、あっさりと「あれに驚く方が驚きだ」と言っていた。「戦争とはそういうもの。そんなことも知らずにいたのか?」という疑問に、私は正直、ビビってしまった。だが確かに彼の言う通りだ。改めて、自分が戦争を知らないということを思い知らされた。
 森の、加工された情報という話に呼応して綿井は言う。彼が伝えたかったのは、「情報ではなく、人間の表情、声、叫び、爆音、銃声、、、」だと。イラクで人質になった経験のある郡山は、戦場の「匂い」を伝えたいのだと力説していた。表現こそ違えど、思いは同じなのだろう。もちろん、彼等だってメディアに頼っている訳なので、「彼等の作品こそ現実だ」とは言えない。だが少なくとも、ニュースをポケーっと観ているだけでは知らなくて済んでしまうような恐怖、痛み、悲しみ、理不尽さに、観る者を直面させる力を持っているのは確かだ。こういった作品に、より多くの人が接することを望んで止まない。