『大人が作る“子どものための”遊び場』


http://www.fujitv.co.jp/nonfix/library/2005/447.html
 
 「最近の子ども」は、創造性を失っている。遊び相手と言えば、生身の人間でなくて機械。そんな子どもたちに、自由に好きに遊べる空間を用意しようと奮闘する「大人」がいる。例えば、フリーパークという試み。この空間には「禁止事項」がない。入り口の看板にはふりがな無しに、「自分の責任で自由に遊ぶ」とまず書いてあって、ちょっと看板にしては長い文章が後に続く。またある男性は赤字、儲からないのを前提に、子どもたちが普段いる場所、児童館や学校などをどうやって「遊びの空間」にするかを伝授してまわる。
 「へぇ、そんなのがなきゃ、最近の小学生って遊べないもんなんだぁ」なんて思いながら番組を観ていたのだが、私だって振り返ってみれば、遊びの空間を大人に用意してもらっていた。例えば幼稚園のお庭。大人、と言わないまでも年齢が二桁になった頃に幼稚園を訪れて、「あれー? こんなに狭い」とびっくりしたのだが、遊具はサイズを除くと私の記憶とぴったし重なった。斜めにかけられた梯子を登ると、吊り橋があって、突き当たりを右に曲がって真直ぐ行くと右手にジャングルジムのようなもの、それを無視して直進すれば樹木と合体した小屋に辿り着く。今、我ながら表現力の乏しさに呆れたが、身体は未だにあの遊び場の記憶を捉えている。この何度往復し、何度昇り降りしたか分からない遊具、実は園児の父母の手作りだった。丁度、ファミコンというものが登場だか普及し始めたころだから、きっと「最近の子どもはコンピューターゲームばかりやって、全く創造性を失ってしまった‥‥」なんて嘆かれながら育ったのだろう。だけどガキたちは、幼稚園に居る間、あの吊り橋を、あの小屋を、あのジャングルジムを消耗させる程まで使いまくった。ガキら自身は、目の前にある遊び場を「飽きる」という概念を知らぬまま、走りまくった。それでもあいつらは「哀れな都会の子どもたち」「コンピューターゲームに汚染された子どもたち」だったのだろうか?
 「最近の子は‥‥」とぼやこうと何だろうと、一つだけ言えることがある。それは、生まれた瞬間から「ルール」「掟」「決まり」「法」「理(ことわり)」「原理」を知っている赤ん坊はいないということである。ここに挙げた中から、最も適用範囲が広いと感じられる「理(ことわり)」という語をピックアップしてみたい。「ことわり」とは例えば、赤ん坊が幾ら望んでも、赤ん坊の唇と母親の乳首はいつかは離れなくてはならない、とか、一歳児がどう頑張っても、色鉛筆の削れていない側を紙に押し付けても何も書けないとかそういうことだ。こういった「ことわり」が登場するのは、全てが可能な世界に一線が引かれて、「あちら側(不可能なこと)」と「こちら側(可能なこと)」の区別が出来る時だ。それぞれの社会によって異なる理もあれば、全ての人間に共通する理もある。いずれにせよ、自分が生まれた親だとか彼らが属している社会や家族の理を我々は知らぬ間に学んでいる。言語だってそうして学び取った理の一つだ。また、ある人は親から「歩く」という人間としての理の一つを得る機会を持たなかったが故に、十代に差し掛かってから発見されるまで、歩いたことがなかったという。この人は生まれてからずっと、暗い部屋に閉じ込められており、言うなればなんの理も得ていなかった。
 何にせよ、赤ん坊として生まれて来た人間は、様々な理を身に付けて行く。何を身に付けるか、何を拒否するかを選択できるようになるのは、最低限の理を得てから、或は「他の可能性」「選択肢」を知ってからだ。(何が最低限なのか、と聞かれると困るけれど、「自我」みたいのが芽生えるとガキは一気に我が儘になるということを指摘しておく。)だから、赤ん坊は無条件に自分の周りに居る人間の理を得る他ないし、もし彼らが何もしなかったら赤ん坊は理を得ないままであろう。ではこれを、「赤ん坊とは単に大人の理に対して受動的な生き物である」と言うべきだろうか? 多分違う。理をもたらす大人と子どもの関係は、能動と受動ではなくて、「触れ合い」のようなものだと思う。何かと何かが接触した瞬間、「互い」つまり「そちら」と「こちら」の概念が生まれ、境界線が成立する。自/他の線分という理が生まれるのは、互いが接触したことを認める時空に於いてであろう。触れ合わない限り、「他」がない以上「自」もない。ちょっと話が逸れるけれど、最も質が悪いのは「触れた」と一方的に思い込む連中だ。無理矢理自分の線、理を相手の中にねじり込み、「ほらね? ここに線があるじゃない、理があるじゃない」と宣う奴ら。
 もし「子どもの創造性」みたいのがあるとしたら、それは子どもを観察している理を知る大人が、目を剥くような行為を言うのではないだろうか。またそれは、まわりの人間が一石を投じることで、どんどん拡大されていくものではないだろうか。もちろんそれだけではないだろうけれど、「最近の子ども」について嘆いている大人たち、彼ら自身が創造性を失っているんじゃないかと私は思う。「テレビゲーム」「コンピューター」の一言を持ち出して、自分たちが知らない世界に熱中する子どもたちを恐れすらする。そして、自分たちがかつて楽しんだものを知らない子どもたちは不幸だと考える。けれども、コンピューターやら電子ゲームに子どもを接続させる環境を整えてやっているのは、どう考えたってまわりの大人たちではないだろうか? だからといって大人たちを責める気はさらさらないけれど、託児所で理をまだ知らない子ども(2歳前後)の恐るべき柔軟性みたいなものを見て来た限りでは、「子どもの創造性」なるものはちっとも失われていないと思う。彼らはもちろん、おもちゃやテレビも好きだが、例えば絨毯一枚あれば遊びだす。「きったないなぁ」と口に出さずにはいられないのだが、あやつらは何と、絨毯の下に足をつっこんでもぞもぞやって嬉々としているのだ。そこで例えば、「やめなさい。絨毯は敷くものであって、お布団とは違うのよ」と言えば、そこに一つの理が生まれるだろう。だけど、所詮子どもということで放っておく、あるいはもぞもぞやっている上に色んなものを置いたり(自分の足の動き一つでぬいぐるみがひっくり返ったりするのを、彼らは存分に楽しむのだ)、絨毯の上からこちょこちょ足をいじったり、「あれれ? ●ちゃんのあんよが消えちゃったよ? どーこいったかなー?」(「いないいないばぁ」に狂喜狂乱するのだから、足が隠れている状態とは足が無いに等しい)とか一緒になって遊べば、子どもたちはもっとテンションを高めて大騒ぎになる。
 絨毯に足をつっこんでニコニコしている子どもに理を植え付けるのは簡単だ。そこから足を出させて、絨毯の本来の機能(?)を教えたり、叱りつけたりすれば良い。しかし、彼らが発見した遊び方に加担するには頭を使う。この番組で扱っている年代は小学生以上だったので、即座に2歳児たちと同一視するなんてことはもちろんできないが、それでも少しヒントのようなものは見えてくるだろう。多分「創造性」なるものは「理からの逸脱」という要素のようなものを含んでいるのだと思う。だからもし、常識や理に凝り固まっている子どもがいたら、その「子ども-オトナ」は創造性なんてものとは無縁だろう。また、好き放題やろうとする子どもを理で包囲していったら、彼らの創造性が失われるのは当然だ。言うまでもなく、刻み込まれなくてはならない理もある。例えば、誰かが自分が欲しいものを他の人の手から無理矢理奪い取ったり、突き飛ばしたりする現場を目撃したら、それが「悪いこと」だと認識出来るようにしなくてはならない。完全な野放しが必ずしも良いのだとは言わない。
 ともかくそういう訳で、遊び方の提供をしてまわる男性が、真剣な顔つきをした大人たちを前に「子ども」について講義したり、そんな「子ども」たちをどうやって楽しませるか、硬い頭で一生懸命考えている大人たちの姿(意見が合わなくて険悪な雰囲気になったりとかもする)を見て、私は「子ども、子ども言う前に、おめぇらの問題じゃねぇの?」と思ってしまった。今までと同じやり方では最近の子どもを楽しませることは出来ない、ならば、文句を垂れていないで何が変わったのか、何なら楽しがるのか、少しは自分の観察力や想像力を駆使して考えてみれば良いではないか。
 これはあくまでも感覚だし、まだ十分にこの感覚と戯れきれていないので、ここではこれ以上言えないのだが、「子ども-オトナ」と「大人-コドモ」が目立ち始めているのではないだろうか。そして更に漠然とだけれど、「大人-コドモ」たちは「子ども-オトナ」を産出しているのではないかと思う。この状況が続けば、人間は創造性を失い、かっちかちの世界に生息する種となってしまうのかも知れない。だが私は、結構楽観的だ。多分、この文章をここまで読んでくれた人がいる限り、まだまだこの世もイケてるんじゃないかな。