『お茶漬の味』レポート

 「芸術学」の課題で、小津安二郎監督『お茶漬の味』(1952年、出演:佐分利信木暮実千代ほか)のとあるシーンを論じたもの。「単位さえとれりゃどうでもいいわ」というのと、「この先生からはSが欲しい」という、二つのタイプの授業がある。このレポートはもちろん、後者のタイプの授業での課題。特に映画が大好きという訳でもないし、正直なところ、邦画なんて殆ど観たことがなかった。ましてや昔の映画(白黒時代)なんて、「なんか無理」と思っていた。が、半年間この授業を受けただけで、邦画に開眼。本当に素晴らしい授業だった。


 長野の田舎出身の、寡黙で温厚な男性と、理想ばかりを追い求め現実とのギャップに常に不平をこぼす、勝手気ままなブルジョア家庭出身の女性。見合いを通じて結ばれたこのでこぼこ夫婦の絆は、結婚後数年が経ち、もはやくたびれきってしまっている。会社の重役を勤め、ブルジョワと形容しても何らさし支えのない、経済的に申し分のない生活を送っているにも関わらず、夫茂吉は、「プリミティブ」で「気安い感じ」を好み、安っぽいタバコを愛し、列車はいつも三等車両。ブルジョワ出身の妻、妙子が「田舎っぽい」として嫌悪する「犬飯」(ねこまんま)も大好きだ。そんな夫に対し、やたらプライドと理想が高い妙子は、まるで現状に満足するのをあえて避けるかのようにして旦那の欠点をほじくり出したり、嘘をつく必要がないのにも関わらずわざわざ嘘をこしらえ、友人や姪っ子と共に温泉旅行に出掛けたりと、気晴らし三昧の日々。旅館では酒を呑みながら、茂吉をうまく騙し果せたと思い込んではあざ笑い、挙げ句の果てには皆の前で自分の夫を池の鯉に例えて、「鈍感さん」と罵ってみせる。
 だが、軽蔑のまなざしを注ぎ続ける妻に対し、茂吉は何一つ文句を言わない。ただ静かに、「そうか」と呟いては、彼女の言動を肯定するのみである。だが「鈍感さん」も、夫婦の仲が冷えきっている、というよりは、妻が自分に対して多大な不満を抱いていることは十分承知している。恋愛結婚を望む姪っ子が、予てから嫌がっていた見合いをすっぽかしたことを責め立てる妙子に対し、茂吉は思わず、「やだってものを無理に結婚させたって、君と僕みたいな夫婦がもう一組できるだけじゃないか」と口走ってしまう。夫から出た初めての、そして余りにストレートなこの反論を前に、妙子の堪忍袋の緒はぶち切れ、以来彼女は茂吉を無視するようになる。こうなるとこの二人はもはや、離婚への道を突っ走るのみである。
 こんな最悪の状況の中、茂吉はつい、捨てきれない田舎での習慣から、妻の前で「犬飯」をやってしまう。恐らく妙子は茂吉と結婚してからというもの、そのプライドの高さゆえに、彼が持つ田舎っぽい要素を抜き出そうと努力して来たことだろう。その努力が水の泡となるのを目の当たりにした彼女は、茂吉を激しく咎める。流石に何とかせねばならないと思ったのか、茂吉は妙子を書斎に呼ぶ。だが、夫への怒りを露にする妙子は、「もうやらないよ」と穏やかな笑顔を浮かべながら詫びる茂吉をまともに見ることもなく、つっけんどんな応答しかしない。茂吉が涙ぐましいまでに妻に歩調を合わせようとするのにも関わらず、妙子は自分の旦那を冷徹に突き放す。茂吉が「三等車両が気安いんだ」と言えば、「あたくしは一等が気安いんですの」と応酬してみせる、といった具合だ。
 妙子にとって、茂吉との間に走った亀裂は、埋め立てることは疎か、橋を渡すことさえ難しくなっており、茂吉との会話は耐えがたいものになっていた。一通り出身階級の違いを巡る論争が済んだところで、「それから、ちょいと話しがあるんだ」と切り出す茂吉を、「もう結構です」と一方的に振り切り、妙子は部屋を出て行ってしまう。何としてでも伝えておかねばならない、重大な話しであるのにも関わらず……。妻と真逆で、怒るということをおよそ知らないのだろうか、無言でうつむいてしまう茂吉に、哀愁を帯びた音楽が重なる。もの悲しさ、諦めに困惑、様々な想いが混じる茂吉の様子に惹き付けられ、彼の気持ちに共感しようとする次の瞬間、唐突に、そしていささか暴力的に、画面は列車の最後尾のデッキからから見た、駅がぐんぐんと遠ざかっていく様子にカットする。そして約九十秒間、列車のシーンが続くことになるのだが、この部分を論じることがこのレポートの課題であるので、ともすれば「妙子が列車に乗って遠出するシーン」と一言で片付けてしまうことも可能なこのシーンについて、詳しく見て行きたい。
 まず、茂吉のショットからカットすると、最後尾車両の外側に備え付けられたキャメラが、ずんずんと小さくなってゆくホームを映し出す。どこの駅であるかははっきりしないが、一番後ろの車両がホームを出切ってしまう頃には、列車のスピードは既に十分に加速しているだろうから、段々見えなくなっていくこのホームが、単なる通過駅ではなく、今し方この列車が出発したホームだと判断して良いだろう。このショットは、ガタンゴトンというお馴染みの音をBGMに12秒ほど続くのだが、この段階ではまだ、列車に誰が乗っているのかは分からない。そして次のショットで、今度は車内から、同じようにして過ぎ行く風景が映し出される。キャメラのレンズに依らない、列車の速度を利用したズームアウトとでも言おうか、いずれにせよこのショットで、この映画が製作された当時(1952年)の観客は恐らく、これが展望車であることに気付かされたことだろう。何故なら、この車両がガラス張りであることが判明するばかりでなく、花瓶が置かれた、テーブルクロスのかかった小さなテーブルが姿を現すからだ。そして、展望車であることで当時の人びとは自ずと、この列車が長距離列車であることを知ることだろう(展望車とは、長距離列車の最後尾に連結される特別車両であった)。勘の良い人間であれば、既に最初のショットが、展望車のデッキから見た風景であることを察知していたかも知れない。なぜなら、展望車にはデッキがついているのがお決まりとなっていたからだ。そして二つ目のカットの途中から、車内放送が流れ、この列車があと5分で浜松に到着すること、また、名古屋や京都を経由する大阪行きであることが明らかになるが、この運行案内の途中で画面は、妙子の上半身にカットする。
 ところで、三つ目のショットについて述べる前に、一つ目から二つ目のショットに移る際に起きているおかしな点に触れておきたい。それは、一つ目のショットが出発したてだったというのに、この列車が長距離列車であることが判明する二つ目のショットの半ばでいきなり、「あと5分で浜松」ということが宣言されるという点である。もしかしたらこじつけに過ぎないのかも知れないが、これら二つのショットの間に、かなりの時間の断絶があった可能性がある。
 さて、三つ目のショット――ここに至るまで実に約20秒もの間、観客は、ひたすら走り続ける列車の中に閉じ込められる――で初めて、妙子が列車に乗っていることが明らかになる。上半身が映し出された妙子の目は、全く動かない。まばたきの少なさは、数えられそうな程だ。だが、うつむき加減のその視線は、どこか一点に集中させられている訳でもなさそうだ。一体彼女の目には、何が映っているのだろうか。いや、恐らく彼女が見ている「何か」は、生理学的に知覚されうるような代物ではないのだろう。
 現存する何ものをも捉えないまなざし。そして、顔の表情はといえば、物思いに耽っているのであろうが、悲しそうでも、いつものように不満そうでも、また怒りに燃えているようでもない。茂吉との言い争いが頭の中で反復されているのだろうか。結婚生活がこれほどまでに荒んでしまった原因を、あれこれと探しているのだろうか。はたまた、新婚の頃を思い返しては、現状との余りの格差に落胆し、惨めな気分にでも陥っているのだろうか。
 また妙子は、車内放送には少しも反応せず、展望車だというのに外を見る気配も全くない。展望車――恐らく一番高く付く――を選んだのは、三等車両を好む夫を否定しようと頑張ってみただけだったのだろうか。読み取り様のないまなざしや表情、そして未だ明らかにならぬ彼女の旅の目的。何も語られぬが故に、観る者の想像力は無限に広がる。
 次いで画面は、座席に腰掛ける妙子を真横からとった姿にカットする。彼女の断面図を映すこのショットで、われわれは、彼女が文字どおり微動だにしていないことを知らしめられる。またここでは、妙子の向かい側に男性の乗客がいることが分かるのだが、この乗客は足しか見えていない。間近にいたら気味が悪くなってしまう位に、読み取り様のない表情を浮かべる中年女性を正面に、乗客は一体何を思うのだろうか。
 ここで再び、妙子の上半身にカットする。素早く通り過ぎて行く窓の外の景色さえなければ、先ほどのショットと全く同じと言っていいだろう。だが列車は、彼女が何を考えようと、時空を突破りながら前進し続ける。やがて車内放送が終わり、再び列車のガタゴトいう音だけになったかと思うと、映画館の観客だったら思わず耳を塞ぎたくなるような、そして、一人でリモコンを片手に家で観ていたら間違いなくボリュームを下げてしまうような、耳をつんざく轟音が鳴り響く。と同時に、窓の外に鉄橋の一部が映り、列車が橋を渡り始めたことが判明する。
 そして次のショット――実に六つ目になる――で、車内のキャメラは二つ目のショットと同じように、外の風景を映す。しかし轟音と共に画面に映し出されるのは、先ほどとは違い、どんどんと遠ざかっていく網目状の鉄橋である。列車はひたすら時空を移動し続けるのにも関わらず、次のショットではまた、相も変わらず微動だにせず、何も語らない妙子の上半身が映し出される。このショットに到達するまで、列車のシーンはもう一分もの時間を使っている。いい加減長いと感じ始め、また、この快いとは言い難い轟音が早く消え去りはしないかと思った矢先に、またこの顔である。観る者の想像力は刺激されっぱなしである。そして今度は、外のキャメラが鉄橋を映し出す。このショットでこのシーンが終われば、外のキャメラで始まって外のキャメラで終わる、という一応の対称性のようなものを見出せるのだろうが、幸か不幸か、最後に再び車内のキャメラが橋を映し出し、全部で九つのショットからなるこのシーンがやっと終わる。
 ところで、最後の二つのショットだが、再び時間の断絶が起きてはいないだろうか。鉄橋の柱に振ってある番号に注目してみたのだが、八つ目のショットでは列車は一番から四番までを通過する。ところが、最後のショットにカットすると、この番号が十四番になっているのだ。正直なところ、我ながら強引すぎると思うのだが、是非、鉄道マニアなどに細かいところを確認してみたいところだ。そしてもしここにも時間の断絶があるとすれば、時間の断絶をキーワードにして、シーン全体に対称性が生まれる。(下図を参照。)もっとも、「対称」にこだわる必要はどこにもないのだが。
 約九十秒もの間、何も起こらず、ひたすら時と場所だけが変化して行く。もしこのシーンが、単なる列車旅行を表現しているのだとしたら、余りにも長く、物語性が欠如していると言わなければならない。これでは何も起こらなさ過ぎる。だがこのシーンは、時空の移動や変化以外、何も語らないことを目指しているのではないだろうか。この部分に、様々な暗示や、多大な意味を読み取る必要は恐らくない。結果的に、この夫婦に最良の形で絆を取り戻させるきっかけとなる妙子の家出を、このような形で描いてみせることで、われわれは極自然に、この作品の後半部分へと運ばれていくのだ。
 このシーンの後、こう着状態だった夫婦の冷戦に、茂吉の海外赴任という形で変化が訪れる。そして夫婦の関係はお茶漬の味へと収斂していくのだが、この映画を観る楽しみを減らさないためにも、この辺りで筆を止めておくことにしよう。


※図ではキャメラは「外/内」の区別しかしていないが、先生に尋ねたところ、実際はかなりたくさんのカメラが用いられていたのだそう。

〔参考資料〕
 デヴィッド・ボードウィル著/杉山昭夫訳『小津安二郎:映画の詩学』(青土社)p.521〜p.528
 展望車については「鉄道死語辞典」http://hokuso.com/shigo/html-shigo-048.htmlを参考にした。