振り返るシリーズ vol.2〜ニーチェ

 卒論で引用しようと思ってとっておいたメモ。
 ニーチェ(1844-1900)の文章にみる、「国家」や「近代」。いやはや、何時読んでもニーチェの鋭さやパワーには圧倒されてしまう。
 戦後のフランスには、信じられない程多くの素晴らしい哲学者が誕生した。そしてそれは、戦中にバタイユが中心になって起こした、「ニーチェファシズムから救え!」という運動に依るところが大きいとゼミの先生が言っていたのを記憶している。



道徳の系譜』岩波道徳の系譜 (岩波文庫)、p.100-102
 良心の疾(るび:やま)しさの起源に関するこの仮説の前提は、第一には、あの変化が漸次的なものでも自発的なものでもなく、また新しい諸条件への有機的な成長として現われたのでもなく、むしろ一つの断絶、一つの飛躍、一つの強制、一つの不可避な宿命として現われ、それに対しては何らの抗争も企てられず、また《反感》さえも抱かれなかった、ということである。そして第二には、それまでは防遏も受けず形も成していなかった住民を固定した型に嵌(るび:は)め込むという操作が、一つの暴力行為をもって始められ、また同じく全く暴力行為をもってのみ終わったということ――従って最古の「国家」は一つの恐るべき暴政として、一つの無情な碾臼(るび:ひきうす)として現われ、その碾臼が廻っているうちにやがてあの民衆や半動物という原料はついにすっかり軟らかく捏(るび:こ)ね潰(るび:つぶ)されてしまったばかりか、更に形(傍点)をさえ与えられてしまった、ということである。(‥‥)「国家」(‥‥)――それは金毛獣のある一群のことであり、戦闘的体制と組織力とをもって、数の上では恐らく非常に優勢であるが、しかしまだ形を成さず、まだ定住していない住民の上に逡(るび:ため)らうことなくその恐るべき爪牙を加えるあの征服者や支配者の一種族のことだ。(‥‥)彼らは運命のように、理由も理性も遠慮も口実もなしにやって来る。電光のようにそこに来ている。余りに恐ろしく、余りに突然で、余りに説得的で、余りに「異様」なので、全く憎いと思うことさえできないほどである。彼らの仕事は本能的な形式創造、形式打刻である。(‥‥)彼らの出現する所にはある新しいものが、生きた(傍点)支配形態が成立する。そしてこの支配形態のうちでは、諸部分や諸機能はそれぞれ限局されつつしかも関係づけられており、また全体に関して「意味」を孕(るび:はら)んでいないものには決して場所を与えられない。この生まれつきの組織者たち、彼らは負い目とは何であるか、責任とは何であるか、顧慮とは何であるかを知らない。


同上p.64-65
「独裁的個体」=souveräne Individium
「自己自身にのみ等しい個体、(‥‥)自律的・超倫理的な個体(「自律的」と「倫理的」とは相互に拒斥するから)である。手短かに言えば、自立的な長い意志をもった約束をなしうる(やくそく〜傍点)人間だ――そしてこのような人間にうちにこそわれわれは、ついに達成されて自ら生身となったところのもの(ところ〜傍点)についての誇らしい、全筋肉を痙攣させるような意識を、真の権力意識と自由意識を、およそ人間の完成感情なるものを見出すのである。」


『悦ばしき知識』ちくま学芸文庫ニーチェ全集〈8〉悦ばしき知識 (ちくま学芸文庫)、p.445-446
われら故郷無き者(傍点)。――今日のヨーロッパ人のなかには、際立って栄誉ある意味で自己を故郷無き者と呼ぶ権利を有(るび:も)つ人間が、いなくはない、――ほかならぬこれらの人たちの心にこそ、私の秘められた知恵と「悦ばしき知識」とが、切に銘記されてほしいものだ! けだし、彼らの運命は苛烈であり、彼らの希望は不確かであり、彼らに慰藉(るび:いしゃ)を工夫してやるのは並みなみの業ではない――そんなことをしたとて何の足しになろう! 未来の子であるわれわれ、そのわれわれが、どうしてこの現代に安らうことができようぞ(できようぞに傍点)! この脆くなり崩れかけた過渡時代においてさえなおも家郷にある思いをさせるような一切の理想に対し、われわれは嫌悪を覚える。ところで、その「現実」に関していえば、それが永続(永続に傍点)するとはわれわれには信じられない。今日なおわれわれを載せている氷は、すでにはなはだしく薄くなってしまった。南風が吹いている。われわれ自身、われら故郷無き者たちは、この氷と諸他の薄すぎる「現実」とを破砕する何ものかであるのだ、・・・われわれは何ものをも「保守」しない、われわれはまたどんな過去にも帰ろうなどとは思わない、われわれはさらさら「自由(るび:リベラル)」といったものではない、われわれは「進歩」のお先棒をかつぎなどはしない、われわれはいまさら市場の魔女(るび:セイレネス)の未来の歌声に耳をふさいだりする必要などない――彼女らが歌うところのもの、「平等の権利」・「自由社会」・「もはや主人なく奴隷なし」等によって、われわれは誘惑されはしない! ――われわれは、正義と融和の国が地上に建設されるのを、願わしいことだとは露思ってはいない(‥‥)。


同上、p.447
われわれは、ナショナリズムや人種的憎悪を弁護するにしては、国粋的心臓疥癬(るび:かいせん)や敗血症に喜びを覚えるにしては、とてもまだまだ今はやりの「ドイツ的」という言葉の意味で「ドイツ的」であるには足りないのだ、――そうした病気のために、現在ヨーロッパでは、国民と国民が検疫で阻止されるように分けへだてられ、遮断されているありさまだ。かてて加えてわれわれは、あまり囚われず、あまりにも意地悪く、あまりにも贅沢に慣れ、あまりに良く教育され、あまりにも「旅して」きている。われわれは、山上に生きるとを、世を離れて、「反時代的」に、過去あるいは将来の世紀のなかに生きることを、はるかに好むのだ。


同上、p.448
われら故郷無き者、このわれわれは、「近代人」としてその人種や血統の点ではあまりにも多様であり混淆している。したがって、今日のドイツにおいてドイツ的心術の表徴として誇示されるところの、しかもこの「歴史的感覚」の国民にあっては二重の欺瞞かつ不都合と感じられるところの、あのまやかしの人種的自己礼賛と淫蕩に、加わる気持ちになど到底なれそうもないのだ。