ウクライナの民主化

 「ウクライナ民主化」だなんて、全くもってタイムリーではないけれど、最近「民衆が独裁的権力を打ち倒し、民主主義を手にする」という「民主化の波」が世界各国でたっている。モザイク国家と言われるレバノンも、詳しいことは調べていないので分からないが、それまでの親=シリア政権が揺らいでいるようだ。そして、ウクライナで目にしたような民衆の喜ぶ光景がテレビ画面に映し出された。(ただし、レバノンは年齢層が少し若いような気がする。)また、イラクも選挙を無理やりやってみせたことで、民主化されたことになっている。革命で一気に厳格なイスラム国家となったイランも自由化・民主化が進み、今度の大統領選挙の民主的な候補が、学生などから支持を得ているようだ。今後「民主化」のうねりはさらに増大して行くかもしれない。そんなとき、以下の文章を思い出していただけたら幸いだ。


 現在「ウクライナ共和国」という国にまとまっている地域は、歴史的にはその地理上の位置故に、東をロシア勢力、西をヨーロッパ勢力に、それぞれ支配されてきた。東部はモスクワ公国やロシア帝国――つまりはロシア側――、西部はポーランドオーストリア=ハンガリー二重帝国――つまりはヨーロッパ側――といった具合である。しかし19世紀になると、ロシア帝国の抑圧政策に対し、「ウクライナ人」の民族運動が興隆する。1917年、ロシア革命が勃発しロシア国内に混乱が生じると、ウクライナはその隙をついて独立を宣言するが、ロシアの革命政府と対立し、内戦状態に陥った。その後1919年に「ウクライナ社会主義国」が成立し、1922年にはソヴィエト連邦に組み入れられ、西部の一部はポーランド領となった。だが結局のところ、西部地域も1939年、ソ連ポーランドに侵攻しこの地域を占領下に置いたため、ウクライナに組み入れられることとなった。第二次大戦後には国境を更に西へ拡げ、一つの国としてまとまることのなかった「ウクライナ人」たちが、「ウクライナ社会主義国」という単一国家の下に統合されることとなった。

 この国はソ連において、ロシアに次いで二番目に重要な共和国であり、特に国土の東部には「ソ連の穀庫」と呼ばれた程の肥沃な農業地帯がある。また東部地域は農業のみならず、炭鉱や鉄工産業も盛んな重工業地帯でもある。しかし、豊かであるが故に搾取の対象ともなり、特に1920年代〜30年代にかけて工業化を押し進めたソ連は、外貨獲得のためにこの地域の穀物を搾取し輸出した。そのためウクライナでは、数百万人が死亡する大飢饉が起きた。また、第二次大戦中に従軍したソ連兵1100万人の4分の1にあたる270万人がウクライナ人であった。そのためウクライナ人の間では、「われわれはソ連を支えて来たのだ」という自負が強い。だがそういった感情にはもちろん、「われわれはロシアから抑圧され搾取されて来た」という負のイメージが絡み付いている。  

 また、ウクライナ人は民族意識が高く、ソ連民族意識や宗教などへの抑圧に不満を感じていた。そのため、レーニンの土着化政策(コレニザーツィア)には逸早く反応し、学校でウクライナ語での教育を行うなど、民族的な文化や伝統を積極的に拡げていった。しかしレーニンの死後スターリンの独裁が始まると、ウクライナ語で教育をしていた教師らを虐殺したり、土着の吟遊詩人たちを集めて一気に抹殺したりと、ウクライナの民族色を完全に消し去ろうとする政策が次々と進められていった。

 1991年8月24日、ウクライナソヴィエト連邦の崩壊に伴い独立した。以上に述べて来たそれまでのソ連からの抑圧や摂取、そして1986年のチェルノブイリ原発事故によるソ連への不信や不満、民族主義の高まりを利用したクラフチュクの働きかけなどが独立を後押ししたため、独立を問う国民投票では90パーセント以上が独立を支持した。しかしながら、その国境をロシアと接する東部地域にはロシア系住民(ウクライナの人口の2割を占める)や親ロシア派が多く、西部はルーマニアポーランドと国境を接しており、ヨーロッパへの帰属意識が高い。また、東地域は正教会キリスト教が主たる宗教だが、西地域はカトリックキリスト教の影響が強い。ウクライナという国は、「ウクライナ国民」というキーワード以外では、東西で宗教も経済基盤も、そして帰属意識も相反している。

 ところでウクライナは独立後、その肥沃な国土にも関わらず経済が立ち居かなくなってしまう。なぜなら、それまでソ連から石油や天然ガスを優遇価格で購入することができたが、独立に伴ってロシアがその優遇処置を撤廃したためである。ウクライナ国内はエネルギーが不足したりインフレに見舞われたりと、大混乱に陥った。そこで、「経済をたてなおすためにはロシアの協力が不可欠である」、とする声が東部を中心に広まっていった。だが、西部では「再び搾取されるのでは」という警戒感があり、東西が対立することとなったが、1994年に行われた初の大統領選挙では、東部に支持基盤を持つクチマ大統領が当選した。

 今年11月、クチマ大統領の任期満了に伴う大統領選挙の決選投票 が行われたが*1、10年経った今も東西の対立構造は残存しており、東部を支持基盤とする、与党が推す親ロシア派のヤヌコヴィッチ首相と、西部を支持基盤とする、親欧米派でNATOEUへの加盟を目指す野党指導者、ユシチェンコ元首相が火花を散らすこととなった。選挙の結果ヤヌコヴィッチ首相が勝利したという結果が公表されたが、これに対しユシチェンコは、「この選挙には与党による不正があった」と糾弾し、選挙のやり直しを求めた。また、ヤヌコヴィッチの当選が発表されると、ロシアのプーチン大統領は彼に当選を祝福する電話を入れた*2が、一方で欧米の政府首脳およびメディアは、この選挙の正当性を認めないという態度をとった。欧米のバックアップを得たユシチェンコは、「民主化」「反-ロシア」「脱-ロシア」といった理念の元に民衆を団結させ、選挙のやり直しを迫るとともに、真の勝者は自分であるということで、大統領就任宣言をした*3。そして、当初はヤヌコヴィッチ派に回っていた国内メディア、警察や官僚なども次第にユシチェンコへの支持を表明し、ついには決選投票がやり直されることが決まった。そして、12月下旬に行われた再決投票の結果*4ユシチェンコの勝利が確定し、今度はヤヌコヴィッチが不正を理由に選挙の無効を訴えたが却下され、敗北宣言をするに至った*5。この一連の動きに関して日本国内では、ウクライナの民衆の非暴力的な活動が民主化を勝ち取ったといったような、肯定的な内容の報道が多いように感じられる*6。また、欧米メディアも、一般にウクライナ民主化を喜んで受け入れるという態度をみせている。報道で伝えられるのは、「与党側に多くの、そして悪質な不正があった」ということ、「ウクライナの民衆は民主化、ないしは反-ロシア親欧米政権の成立を望んでいる」、そして「ウクライナは目出たく民主化への道を踏み出した」ということである。しかし、上述したようなウクライナにおける東西の対立という背景を念頭におくと、ウクライナ民主化を手放しに喜んでもいられないのではないだろうか。三度目の選挙結果を分析すると、西部から中部にかけてはユシチェンコ、東部ではヤヌコヴィッチという二分化された構造がくっきりと浮かび上がる。今回の選挙が「民主化への第一歩」ではなく、「(東西の)分裂の始まり」である可能性も否定できないだろう。

 また何故、欧米諸国はユシチェンコへの支持をはっきりと表明するのだろうか。東西冷戦対決を経験した西側陣営の国々にとって、社会主義に対置させられ、最終的に勝利を勝ち取った民主主義とは絶対的な「善」である。民衆が「善き」政治制度である民主政を自らの手で勝ち取る情景を前に、彼らは賞賛の意を示さずにはいられないのだろう。そんな純粋な理由から、欧米諸国はユシチェンコの勝利を祝っているのかもしれない。しかし、欧米諸国にとって旧ソ諸国における親欧米政権の成立とは、「自分たち寄りの国」もしくは「言いなりになりやすい国」の誕生に他ならない。そしてウクライナがそのような国の一つとなることを欧米諸国が歓迎するとしたら、それは恐らく、ロシアからヨーロッパへと石油や天然ガスを運ぶパイプラインがウクライナ国内を通っているからであろう。また、ウクライナでは現存するパイプライン以外にも、各地でパイプラインや石油精製工場の建設が進行中、もしくは計画されてもいる。石油の利権が絡んだアメリカが旧ソ諸国の民主化を促す裏工作を行っているという大胆な仮説もあるくらいだ。

田中宇ウクライナ民主主義の戦いのウソ」http://tanakanews.com/e1130ukraine.htm
アメリカは、2000年にユーゴスラビアセルビア)で野党勢力を結集させ、当時のミロシェビッチ大統領を追い落とす選挙に成功し、昨年11月には似た手法でグルジアのシュワルナゼ政権を潰してサーカシビリ政権を誕生させた。今年10月にはベラルーシの議会選挙でも同じ展開を試みたが、野党諸勢力間の結束が得られず失敗した。アメリカにとって今回のウクライナ選挙は「選挙を使って旧ソ連系諸国の政権を転覆する作戦」としては4回目となる。http://www.guardian.co.uk/ukraine/story/0,15569,1360236,00.html
 4カ国の政権転覆作戦の詳細を見ると、やり方が非常に似ていることが分かる。まず、分裂しがちな野党諸勢力を一人の候補のもとに結集させるべく、アメリカ大使館(国務省)が事前に根回しをしておくとともに、その国のマスコミの中の野党シンパをネットワーク化しておく。野党陣営の中堅リーダーとなる若手勢力を養成し、最初の成功例であるユーゴスラビアの若手指導者をグルジアウクライナに派遣してデモのやり方などを習得させる。
 野党陣営には一つの単語からなる象徴的な名前をつける。ユーゴスラビアでは「抵抗」という意味の「オトポル」、グルジアでは「もうたくさんだ」という意味の「クマラ」、そしてウクライナでは「今がチャンスだ」という意味の「ポラ」(Pora)という名前を運動体につけている。」


 今回のユシチェンコの勝利によって、民主化の波がウクライナ東部まで及び、周辺諸国、更にはロシア――昨今、プーチンの中央集権化が目立つようになってきている――の民主化の原動力になっていくのか、また、ウクライナの地に住む人びとにとって、民主化が生活改善の要因となりうるのか、今後もウクライナを始めとする旧ソ諸国の政情に注意を向けていきたい。

*1:一度目の選挙は2004年10月31日に行われたが決着がつかず、11月21日に決選投票が行われた。

*2:「ロシアのプーチン大統領は同日、訪問先のブラジルからヤヌコビッチ首相に電話し「当選」を祝福した。」(2004年 11月23日 共同通信

*3:キエフからの報道によると、ユシチェンコ氏のシンボルカラーのオレンジ色のリボンや旗を持った支持者たち数万人が取り囲んだ議会では、野党系議員だけが集まって審議が行われ、同氏は聖書を手に「大統領宣誓」を行った。」(2004年11月24日 産経新聞

*4:2004年12月26日に行われた。Telepolisによると、ウクライナの人口、約4800万人のうち有権者はおよそ3760万人。三度目の正直となった12月26日の選挙における投票率はおよそ77%で、約2900万人の人が投票を行ったことになる。そのうちユシチェンコは約52%(1510万人)、ヤヌコヴィッチは約44%(1280万人)の票を獲得した。

*5:ウクライナのヤヌコビッチ首相は12月31日夜、国民向けの新年のテレビ演説の中で辞任を表明した。26日にあった大統領選挙のやり直し決選投票での敗北を事実上認めた。」(2005年1月2日 朝日新聞

*6:2004年12月28日の毎日新聞の社説、2004年12月30日の読売新聞の社説