カトリーヌ・マラブー 「わたしたちの脳をどうするか」

 7月5日(火)、何の予備知識もなく、「デリダの弟子が、脳について話す」とだけ聞いて、カトリーヌ・マラブーという人の講演会に行ってきた。チラシによると、マラブーは、「脳科学との哲学的対話を通じて、現代資本主義の理論に対抗する、自ら形を与える-形を受け取るという「可塑性」概念を練り上げる、今、フランスで最も注目される哲学者」だそうだ。今日の講演のお題は、「わたしたちの脳をどうするか」で、同名の書物が日本でも出版されている。
 講演の内容を、雑なメモからできる限り再現してみようと思う。但し、話の順番は私の都合によって前後するし、脱落している箇所もかなり多い。(ルジャンドルの時と違って、講演原稿の訳はもらえなかった。期待していたのに。本を買えってことかな。会場で二割引で売ってたんだけど、いま一つ買う気が起きなかった。)あと、フランス語はeの上に付く記号がはっきりせず、調べてもいないのでかなりいい加減。

 和訳が出ている本は今のところ三冊みたい。


わたしたちの脳をどうするか―ニューロサイエンスとグローバル資本主義

わたしたちの脳をどうするか―ニューロサイエンスとグローバル資本主義

デリダと肯定の思考 (ポイエーシス叢書)

デリダと肯定の思考 (ポイエーシス叢書)

ヘーゲルの未来―可塑性・時間性・弁証法

ヘーゲルの未来―可塑性・時間性・弁証法


それから、今月の現代思想『イメ−ジ発生の科学 脳と創造性』(青土社)に論文が載ってた。




・講演の内容

 脳というのは、常に政治性や政治権力と切り離すことができない。そして、この政治性と科学は結びついている。(講演の出だしは、どんな話が出てくるのか分からず、メモが殆どない。)

 まず「可塑性」plasticiteという概念について知っておく必要がある。(私はフランス語に関する知識は持ち合わせていないのだが、plasticiteという言葉はplastique=プラスティックという言葉から来ているようだ。)我々の生活でお馴染みのあの物質のことだが、実はこの語は変形可能なもの、形を与えるもの、爆発を引き起こすもの(例として、プラスチック爆弾)という三つの意味を持つ。三つ目の意味は、前二つのそれと全く異なる。つまり形の破壊に関わっている。plastiqueないしはplasticiteという語には、このように対立する意味が同居しているのだ。

 次に、脳における「可塑性」について三つ紹介しておこう。
 まず脳の連係形成だ。ニューロンシナプスによって結ばれているが、脳は成長するに従って、自らニューロンを生成してゆく。人間の脳は大体15歳くらいになるまでにニューロンが複雑化し、倍増し、脳の固定性(つまり、遺伝的性質)の中に、流動性と柔軟性が入り込む。(メモが不完全でよくわからない。)
 また、脳のアポトーシスであるニューロンの死は、脳のシステムが停止することを意味するのではない。これは丁度、彫刻家のノミのようなものであって、脳のコネクションが組織を(?)変えていくことを意味する。(よく分からないのだが、アポトーシスによって、新たなコネクションを獲得するということなのだろう。)(ここで、「ニューロンの蜘蛛の巣」という表現を紹介しながら、この巣を「樹木状」と表現しているのにはちょっと驚いた。むしろ「リゾーム状」と言うべきではないだろうか。←と、友人に話してみたら、脳のニューロンの突起を「樹状突起」ということを教えてくれた。)
 二つ目は、脳の変形可能性。シナプスの接続は、習慣や経験によって変化する。脳には、適応と学習のプロセスがあり、一度出来た回路でも、教育や反復、経験などによって変化させてゆくことができるのだ。
 そして三つ目が、脳の修復、機能変更、傷の再編成である。例として、健忘症の初期段階において、前頭野が海馬の機能を果たすことがある、ということを挙げることができる。(一つ目の例はについては、変な名簿が回って来たため聞き逃したのだが、「左腕の麻痺 別の回路を使って回復」というメモが残っている。)

 ところで、脳の「可塑性」ということについて知ると、脳の指令機能について三つのことが言える。即ち、中心の告発、脱-局在化(デ・ローカリゼーション)、適応性(アダプタビリティ)である。そして、何よりも注目しなくてはならないのは、これらの語が、経済(経営管理、マネージメント)や政治の分野でも叫ばれているということだ。これについては後に明らかになってゆくことだろう。まずはこれら三つについて具体的な内容を見て行くことにする。

 今まで、脳の指令機能のメタファとして、常に「中心」というものが想定されて来た。脳を中央集中(集権)的組織として捉えようと言うのだ。ベルクソンは、『記憶と物質』のなかで、脳を「電話交換局」として例えている。彼は、「脳は表象を集め、上下に運用するが、あくまでも電話交換局なのであって、何も付け加えたりするものではない、流通させるのみである」というような説明をしている。また、50年代から80年代にかけては、脳は専らコンピュータというメタファによって語られた。つまり、脳が行っているのは、プログラム(情報?)処理であるというのだ。(この辺、人工知能サイバネティクスがどうのこうの言っていたが、よく分からなかった。)
 だが、脳のこういった考え方は今日では有効性を失っている。(と言い切れないから悲しくなるんだけど。)つまり、脳は身体への命令伝達器官ではないということだ。そうではなくて、脳は、個人の歴史やニーズに対応して、創造し、発明するものであり、即興性も兼ね備えている。これからは、人間と環境の相互関係により変化する、フレキシブルな膜としての脳、内と外のインタラクションとしての脳、中心化されないシステムとしての脳というのを考えていかねばならない。コンピュータのように、ハードが上でソフトが下というのではなく、複数のレヴェルを想定しなければならない。脳に主人はおらず、ヒエラルキーもないのだ。また脳は、無数のニューロンの集合からできているネットワークとコネクションによって機能する。どこかに特定の機能があるとして、ユニットを想定するのではなく、マルチ・ファンクション、連合的部位があるということを理解せねばならない。
 二つ目の脱-局在化については、もう既に上で述べられているが、脳の機能を「この部位はこの機能」といった具合に局在化(ローカリゼーション)しないということだ。そうではなく、脳はネットワークによって機能しているのだ。
 そして三つ目に、適応性。脳のコネクションは、不動なものではない。常に、情報活動ごとに動いている。コネクションが不動になる状態、回路のリジッド化、固定化を、我々は例えば、アルツハイマーと呼んだりする。

 以上の新しい脳のイメージと、グローバル化された民主主義のイメージの間にアナロジーが見られる。ハイパー・カピタリスム(ハイパー資本主義?)においては、常に同じ仕事に就いていることではなく、多様な仕事をこなし、多種の経験を積んでいることが求められる。また、固定的(フィックス fix)ではない、臨時の仕事にたくさん就くようになっている。そして、「ポスト・フォード的企業」と呼ばれるような企業は、以前の企業のように太ってはいない。痩せていて、どこへでも移動することができるという、移動可能性を備えている。このような企業は、一時的結合に適応する能力、可処分性を受け入れる人材を求める。経営者はここでは指揮命令の頂点に君臨する者ではなく、人びとを統合する者であり、コネクションを作る者、そしてそれを分配する者なのだ。

 ところで、こういった新しい資本主義や企業が用いるのが、フレキシビリティ flexibiliteという言葉である。これは、今では経済のみならず、政治分野においても支配的な言葉となっている。この語は一見、先ほどまで見て来た可塑性 plasticiteと同じようなものとして捉えられがちである。だがこの二つの語を区別する必要がある。なぜなら、flexibiliteには、適応性や変化可能性といった意味はあっても、形を与える、破壊するという点が抜け落ちているからだ。そして、以下に述べる理由によって、これらの語が実は「異なる」などというのではなく、対立していることが明らかになるだろう。(実はここで、自己について何か重要なことが言われていて、「自己変化のプロセス、「自己の整形」(フーコーの言葉)、自我の自己形成」というメモがあるのだが、よく分からなかった。)

 言うなれば、flexibiliteにはいかなる破壊も存在しない。(flexibiliteに関して、「危機の不在、服従」というメモもある。)マネージメントが要求するflexibiliteは、命令を受け入れ、柔軟に対応するということだけを求めているのだ。だが、全てを受け入れるということは、脳の可塑性(としての適応、順応)とは対立する。なぜなら、脳は拒否することができるし、また破壊したり、主体を投げ出したりして、再形成する力があるのだから。(「可塑性→刻印や痕跡の保持、主体性構成」とのメモあり。)脳の可塑性、これこそが「自由の力そのもの」なのではなかろうか。 
 我々は全てを受け入れる、消費する人形なのだろうか? 我々は今後、flexibiliteの要求に応えていけばよいのだろうか? 答えは否であろう。移動、交換、準拠枠の拡大、動きによって対抗すること、一つのイメージに対して複数のイメージを持つこと、こういった運動のシェーマを、可塑性が提供しているのではないだろうか。



 一通りマラブーの話が終わると、『わたしたちの脳をどうするか』の前書きを書いた、港千尋と訳者2人がコメントを発表した。



港千尋
 「可塑性」は、物理的制約の中で形を与えたり、物質との格闘を繰り広げたり、対象を異なる視点から観たりする、創造のプロセスである芸術にとっても、重要な概念である。……以下は、難しい話だったので省略。文楽の人形遣は3人で、一体の人形を操る。3人の内、おもつかい(面遣い? 左手で人形の頭を、右手で人形の左手を動かす)がコントロールをしているのだが、彼は、一体どうやって命令を出し、また他の二人はどうやって命令を知るのだろうか、など、文楽人形遣いを巡る話だった。コンパクトでエレガントな発表だった。


・訳者2人(桑田光平・増田文一郎)
 どっちがどっちだったか忘れたが(眼鏡で区別しようとしたら、両方とも眼鏡かけててもう諦めた)、一人目は、「脳コンピュータ説」を否定する人はいるが、結局最後には「脳コンピュータ説」に舞い戻ってきてしまう人が多いというのを、二冊の書物に触れながら紹介。
 2人目は、デカルト心身二元論に対して、スピノザのaffect概念などによる心身の一致による克服というのが、現在の脳科学において言われている。スピノザ主義が脳科学で流行しているのだが、これは哲学の意義喪失の危機なのではないか、云々。そんな中でマラブーは、スピノザとのではなく、ヘーゲルとの対話によって、還元主義⇔反・還元主義を乗り越える、新たな考えを創出しようとしている、素晴らしい、云々。以下省略。


・2人目のコメントに対するマラブーの応え
 脳科学の展開において、哲学へのレフェランスがある。
 スピノザは、心と身体は、一つのオリジナルの二つの属性ないしはヴァージョンであるとした。スピノザにおいて、心身の関係はパラレルである。(こっから先意味不明。)心身は政治とのアナロジーにおいて語られるものであり、心身の関係とは、(権)力関係である。スピノザのコナトゥスから、ドゥルーズは「生とは支配である」「生きる機械」(?)「戦争機械」といった研究をする。
 一方ヘーゲルは、精神と身体の関係を主人(命令する側、死を恐れない)と奴隷の関係(死を恐れる)の関係に例えるのだが、スピノザと違って、両者の逆転可能性(丁度文楽における逆転可能性のように。文楽では、人間が人形を操っているのに、実は人形がコマンドしている)について分析されている。この点で、ヘーゲルと対話する理由があるのだ。


・聴講者からの質問1:何故、脳と政治という観点から研究をしているのか? への応え
 科学者の脳機能の描写が、社会的描写であることに気付いたため。医者が、脳損傷による病状について書くとき、「礼儀を欠く」「社会的能力を欠く」などといった記述が見られる。つまり、脳の病理は、社会的描写、社会的不適応者として描かれるのだ。脳は社会的組織で語られている。もし、脳が政治的器官ならば、脳は従順で我々は社会や政治の要求に対して、もはや何の手立ても打てない。そこで、脳の不服従性について考えるようになった。


・聴講者からの質問2:ヘーゲルについて(ヘーゲルにおいて不幸が重要だが云々)への応え
 ヘーゲルの心身関係は常にどちらか一方が不幸である。どちらかが敗者で、もう片方は支配者なのだ。(資本主義、flexibiliteに対する)抵抗への呼び掛けは、いわば不幸な状況から発せられている。だから、この呼び掛けは、奴隷のディスクールと言える。不幸だからこそ、抵抗するのだ。(これにはちょっと唖然とした。マラブーの顔をまじまじと見たのだが、本気だったのかふざけていたのか、分からない。まさか、ふざける訳はないから本気だったんだろう。)


・聴講者からの質問3:主体に関する質問(ラカンの主体化がどうのこうの)への応え
 主体とは、恐らく、物と精神の分化しがたさを表す言葉である。脳には、相反する特性がたくさんある。例えば、物質であると同時に形、思想であり肉体である、精神であり物質でもあるなど。これらの不可分性を表すのが主体という言葉なのだと考えている。
→これに対する港さんのレス
 写真では、撮る対象のことをシュジェ(主体)と呼び、レンズのことをオブジェ(客体)と呼ぶ。ここには意味の逆転が見られる。シュジェというのは、まなざしの関係の中で作られるものであり、ア・プリオリにあるのではない。世界と人との関係の中に立ち表れるものである。


 これの二日後の講演にも足を運んだのだが、脳の話とはうってかわって「哲学の使命」というテーマだった。ヘーゲル哲学の“偉大さ”を思い知らされ、ドゥルーズガタリがどんだけ異端なのかを垣間見た気がした。その後、『ニーチェと哲学』の最終章を授業でやったが、やはり、ドゥルーズは素敵すぎる。