「本屋で何買ったと思う?」
 「本。」
 「違うから聞いてんの。ヒント、紙製品。」
 「……。」
 「ちょっと、無視してんの? そいとも、諦めの境地?」
 「なに?」
 「だから紙製品。」
 「だから本でしょ?」
 「違うってば。本じゃない紙製品。どの家にも必ずあるもの。」
 「ゴミ箱。」
 「ゴミ箱は紙じゃなくても、鉄とかプラスチックとか色々あるでしょ? でもこれは紙じゃなきゃいけな いの。」
 「うーん……。わかった!! ティッシュ。」
 「そう。」
 「なんだよ、ったくぅ。はぁ? ティッシュ? だって本屋でしょう?」
 「ティッシュっていうか、トイレットペーパーなの。トイレットパーパーを本屋で買ったの。」
 「はぁ? もう、うざいんだけど。」
 「だからさ、トイレットペーパーに印刷してあんだよ。」
 「どこが、『だから』なんだよ、ぁったくよぉ!」


 疑問を差し向けられた相手は本当にうんざりしていたが、私はとことんこの会話を楽しませてもらった。
 トイレットペーパーに文章が印刷され、薄手の安っぽい紙に包まれ、350円という値がついて売られている*1。発売元はれっきとした出版社、春秋社。トイレットペーパーには、『建築する身体』という、荒川修作+マドリン・ギンズによる書物の「エッセンス」が「26文字×117行(約3000字)にまとめ」られ、「繰り返し印刷」されている。実はこのことに、ちょっとがっかりした。私は『建築する身体』の内容がそのまま、全てトイレットペーパーに印刷されているのかと勘違いしていたからだ。だがそれでも、いや、それだからこそ、このトイレットペーパーは、無駄で無意味な疑問で人を捕らえてしまう変な力を持っている。
 トイレットペーパーと本は融合可能なのか? 本とは、そしてトイレットペーパーとは何なのか?
 嗚呼、なんて無駄な疑問だろう。本は本だ。目の前にそびえる本棚に詰め込まれた紙の束を見れば、何が本かなんて説明なしに分かってしまう。そして、いくら本が紙で出来ているからと言って、本でケツを拭く奴なんていない(と望む)し、トイレットペーパーはその限られた使用目的ゆえに、文字や絵を求める者もいない。(無論、たまに絵柄や、雑学的知識が印刷されたトイレットペーパーがあることにはあるが。)第一、トイレットペーパーにとって、廃棄されることは正に本望だが、本は廃棄されたら悲しい。
 また、法律的というべきか制度的というべきかよく分からないのだが、いずれにせよ、このトイレットペーパーには世界中の本につけられた番号である、ISBNがついていない。また必要がないからか、商品のカテゴライズが不可能なためか、バーコードもついていない。350円という定価が、外側の薄っぺらい紙に表記されているのみだ。では、既に飽きが来かかっているこの350円のトイレットペーパー本を、私はどのようにして保管――あるいはもしかしたら処分――するのだろうか。
 こんな不毛な疑問に捕われているところに丁度、先ほど私が質問攻撃した人物から電話が掛かってきた。電話の向こうでその人物は、「鼻くそが出た」と唐突に言い出したのだが、思わず私は「それ、どっから出た?」と聞いてしまった。そしてすかさず、「膝から鼻血がでたっー!」と大騒ぎした昔の自分を思い出す。一体どうしたのだろうか。私は今、鍋を片手に風車に突進したドン・キホーテのように、一般名詞というものに攻撃を仕掛けようとでもしているのだろうか。
 ところで、本もノートも、水浸しになっても注意深く水分を拭き取り、乾燥させれば読めなくなることはない。もっとも、インクが滲んでしまえばそれまでだが。だが少なくとも、紙そのものが水に溶けてしまうなどという事態は起こらない。ところが、トイレットペーパーは水に溶けてしまう。溶けて「しまう」などというのは、普段の生活を顧みれば間違った言い方である。なぜなら、トイレットペーパーがトイレットペーパーとして重宝されるのは、水に溶けて「くれる」からだ。
 さて今、トイレで用を足し、トイレットペーパーで事後処理を行い、手を洗ってPCの前に帰って来た。手がほのかに濡れている。トイレの中で、我が家のトイレットペーパーと荒川+ギンズの文章が印刷されたそれを比較(例えばうちのトイレにある紙は二枚重ねでないし、芯もない)していたものだから、『建築する身体』をもう一度見てやろうと手を延ばし、思いとどまる。「濡らしちゃやばいっ!」
 さて、先ほども述べたように、このトイレットペーパーは、普通の本ヴァージョンの『建築する身体』の内容がそっくりそのまま印刷されている訳ではない。ここに、一種の戦略のようなものがあるのではないだろうか。もし、全ての文章が印刷されていれば、「ちょっと読みにくいけど、お得」という購買動機が働く。正直なところ、私にはそういう不純な動機があった。だがこのトイレットペーパーでは、ほんの3000文字しか読むことができない。
 では、これは単なるトイレットペーパーか。勿論違う。紙質が優れているというわけでもないのに、一つ350円もするトイレットペーパーがあってたまるものか。もしあったとしても、私の手もとにある可能性は限り無くゼロに近い。それに、書店に山積みにされるなんて事態も起こらないだろう。雑貨屋にでも置かれて、その値段ゆえに埃でもかぶっていることだろう。
 だが、この名付けようのない奇妙な商品は、商品であるにも関わらず、高くも安くも、お得でも損でも、有用でも無用でもない、本とトイレットペーパーの中途半端な融合物として、書店に並び、人びとの目に触れることになった。また、いつの日かこの奇妙な物体が「芸術作品」となり美術館に展示されたり、あるいは、新たな芸術作品の材料として使われるなんてことになるかもしれない。
 いずれにせよこのトイレットペーパーは、多くの人びと――普段は書籍を扱う書店の店員、本屋でこのトイレットペーパーを手にうろうろしていた私とすれ違った人、たまたま本屋のウィンドーに目が行った人、あるいは製造・流通に関わった人など――を、少なくとも一度は疑問の渦に巻き込んだことだろう。そしてこういった意味では、この物体とそれを巡って起きる現象は、美術館に依らない芸術であると言えそうだ。この企画を実現させた荒川+ギンズは今頃、「あぁ、おもしろい」とニコニコしているのではないだろうか。私もそろそろ筆を止め、このニコニコの仲間入りをさせてもらうことにしよう。