パレスチナ問題

 アッバスシャロンが停戦の「宣言」をした。しかし、スマトラ沖地震を巡る各国政府の寄付の「表明」と同様、「宣言」が実際にどれだけの効力を持つかは疑問に附されたままである。私は今回の「宣言」がパレスチナイスラエルの和平に繋がるとは思わない。そのように思う理由のようなものは、以下の文章から分かってくるのではないかと思う。これは、世界史の授業のレポートで、パレスチナ問題について書いたもの。




 19世紀、ヨーロッパ大陸の各地で民族主義が台頭し、どの地域においても「他民族」「賤民」とされてきたユダヤ人に対する迫害が強まっていった。中でもフランスでは1894年、ユダヤ人国家建設の機運が高まるきっかけとなる「ドレフュス事件」が起きる。フランスでは1789年の革命以来ユダヤ人にも市民権が与えられており、ユダヤ人も「一フランス国民」として国軍に従軍するようになっていたのだが、1894年ユダヤ人将校として初めてフランス軍参謀本部入りしたドレフュスが、無実の罪を被せられ終身流刑の罰を受けたのだ。これはドレフュスが「ユダヤ人」であるが故に起きた冤罪事件であった。フランス国内は彼の無罪を主張する「私は糾弾する」で有名なエミール・ゾラを始めとしたドレフュス擁護派と、反ユダヤ主義(反-ドレフュス擁護)派が真っ向から衝突することとなった。この事件をきっかけに、フランスのユダヤ人たちは、「フランス人にはフランスという国があるのに、なぜわれわれユダヤ人には国家がないのだろうか?」と自問するようになる。

 この事件を取材していたオーストリアのジャーナリスト、テオドール・ヘルツルは、ユダヤ人に市民権を与えた自由の国、フランスにおいて反ユダヤ感情が増殖していく様に衝撃を受け、1896年に『ユダヤ人国家』を発表した。この書物で彼は、ユダヤ人自らが国家を建設し、諸外国にそれを正式に承認させる以外にユダヤ人問題は解決され得ないと主張した。そして翌1897年になるとヘルツルは、バーゼルで第1回シオニスト会議を開催し、シオニズムの運動に勢いを与える。ところで、シオニズムとはユダヤ人が約束の地とみなす「シオンの丘」、つまりはイェルサレムユダヤ人国家を建設しようとする運動のことで、ヘルツルはこの運動の父と言われているようだ。しかし実際は、こういった運動自体はマイナーながらも以前から存在していた。例えばユダヤ系大富豪一族ロスチャイルド家1878年のベルリン条約によりパレスチナ地方がフランスの支配下に入ると、パレスチナでの土地買収とユダヤ教徒へのパレスチナ移住勧誘を始めていた。

 またヘルツル自身は始め、国家建設の場所をイェルサレムと定めていた訳ではなかったのだが、第一回シオニスト会議で採択された「バーゼル綱領」の前文では、「公的に承認され、かつ法的に保証された郷土をユダヤ民族のためにパレスチナに確保する」ことが宣言された。この頃から徐々にユダヤ人のパレスチナ入植が始まるが、ユダヤ人の流入が増加する契機となったのは1917年11月のイギリスの「バルフォア宣言」と、ナチズムの台頭によるユダヤ人迫害・殺戮の強まりであった。このうち「バルフォア宣言」は、第一次大戦中のイギリスがユダヤ系(特にロスチャイルド家)の金融資本欲しさに、パレスチナの地に「ユダヤ人のための民族郷土(national home)」を建設することを認めたものである。しかしこれは、この宣言の二年前に、オーストリア、ドイツ側に立って参戦していたオスマン・トルコに対してアラブ勢力が反乱を起こす見返りに、イギリスがアラブ国家の独立を承認するとの約束を交わした「フサイン・マクマホン協定」と明らかに矛盾するものであった。更にイギリスは、1916年にはロシアとフランスに対し、パレスチナを国際統治にするといった条項を盛り込んだ、戦後のアラブの分割を取り決めた「サイクス・ピコ条約」を秘密裏に結んでいた。この三つの、互いに矛盾するイギリスの外交政策が、現在のパレスチナ問題の大きな要因の一つとなっていることは確実であるといって良いだろう。その後紆余曲折を経て、イギリスは結局のところ第一次大戦終結後の1920年にはパレスチナ委任統治領とすることに成功する。


 さて、この一連の動きに対してアラブ人たちが黙っている訳がない。1929年には「西の壁」――イェルサレムの旧市街地にあるイスラムの聖地を囲む壁の西側であると同時に、ユダヤ教徒が祈りを捧げる場所でもあった――において暴動が起きた。3つの宗教(ユダヤ教キリスト教イスラム教)の聖地が重なる旧市街地では、もめ事を防ぐための約束が色々と決められていたのだが、移民の増加で勢いを増したユダヤ教徒がその約束を破ったのだ。かねてから増える一方のユダヤ人に対する先住者――パレスチナ土着の民族で「パレスチナ人」と呼ばれる人びと――の不満は遂に爆発し、双方合わせて何百人もの死者が出る事件にまで発展した。

 しかしその後も、パレスチナパレスチナ周辺のアラブ人たちの高まる不満をよそに、ナチズムの台頭によりパレスチナの地へのユダヤ人の入植は増加する一方であった。流入のピークであった1931〜35年には入植者の数は14万人を超える程にまでに膨れ上がり、パレスチナ人やアラブ人にとってユダヤ人は、委任統治下の社会ないしは経済のバランスを根底から覆しかねない脅威となっていた。こういった背景の下、1936年にアラブ系のイスラム教徒とキリスト教徒によるパレスチナの大反乱が起きる。この反乱は39年まで続き、ゼネストからゲリラ戦にまで発展したが、イギリスはこれを鎮圧し、最終的にはパレスチナ人同士の内輪もめによって自滅したのだが、その後もユダヤ人とパレスチナ人との軋轢は解消されることはなかった。

 その後第二次大戦が終結するとイギリスは、パレスチナにおける対立を解決することなくパレスチナからの撤退を決め、その処理を国連に委ねた。国連は1947年2月、「国連パレスチナ特別委員会」を設置、同年11月には「パレスチナ分割案」が可決された(国連総会決議 181号)。この分割案は、パレスチナを「ユダヤ人国家」と「アラブ人国家」に分けてそれぞれ独立させるという内容であったが、土地の分割は圧倒的にユダヤ人に有利なものとされていた。何せ、当時パレスチナの土地の6パーセントしか所有していなかったユダヤ人に、国土の56パーセントを与えると言うのである。更にユダヤ人に与えられるとされた土地は、水資源と肥沃な農業地帯を有していた。この完全に不公平な分割案は、大統領選挙に向けてアメリカ合衆国内のユダヤ人の支持を取り付けようとしたトルーマン米大統領によって後押しされたこともあり、賛成が33ヶ国だったのに対し反対は13ヶ国に留まり(棄権はイギリスを含む10ヶ国)、可決された。パレスチナの土地を分割するための投票に、当事者たるパレスチナ人とユダヤ人が参加できなかったのは、「国家」(もしくはそれに準ずる共同体)という単位を必要とする国連という機関が孕む大きな問題の一つと言ってもよいだろう。

 ユダヤ人にとって有利なこの分割案は、当然の如くパレスチナ人の反発を招いた。しかし驚くべきことに、ユダヤ人はこれだけ有利な条件にも満足することはなかった。1948年5月、イギリスの委任統治が終了すると同時に、国境を明示しないままイスラエル国家の樹立を宣言したのだ。これに対しアラブ諸国は反発し、攻撃を仕掛ける。第一次中東戦争の勃発である。イスラエルは始め苦戦するが、休戦を機に体制を立て直し、この戦争に勝利した。そして、国連決議によって決められた土地を更に上回る、パレスチナ全土の8割弱の土地を手にする。この戦争はイスラエル側からは「独立戦争」、アラブ側からはパレスチナ喪失の意を込めて「ナクバ 」と呼ばれる。この戦争により土地を失ったパレスチナ難民は国連の推定によると725,000人にも達したという。

 ここまででの一連の流れが、現在になっても解決の糸口を見出せないまでに混乱し絡み合ったパレスチナ問題の背景であると言ってよいだろう。

 その後第三次中東戦争(通称「6日間戦争」)でイスラエルは、エジプト・シリア・ヨルダンに圧勝した。これによってイスラエルは現在「占領地」と呼ばれている、ヨルダン川西岸、ガザ地区シナイ半島ゴラン高原を獲得し、支配地域をより広げることとなった。そしてこの勝利以後イスラエルは、占領地に積極的に入植地を建設していく。入植地とは、パレスチナ人地区にイスラエルの軍人が入り土地を没収し、イスラエル人用の住居を建設し、その周りに囲いを作り、軍隊が警備するというものだ。われわれからしてみれば、「一体誰が敵の陣地のど真ん中に住もうとするのか?」と疑問に思ってしまうが、危険を顧みず神との約束を実現させようとするユダヤ教の人びとや、入植地の家賃の安さに惹かれた人、イスラエルに住む場所を得られない新顔の移民たちが、入植地へと流入していった。勿論このような行為を容認する国はなく、イスラエルは国際的な承認を得ることなく入植を続けてきた。2004年、それまで熱心に入植地計画を推進させてきたイスラエルシャロン首相が、ガザ地区からユダヤ人入植者を撤退させると発表したが、その一方で彼は西岸地区の入植拡大を明言している 。恐らく、入植者人口そのものを減らす気は彼にはないのだろう。また、入植地以外にもパレスチナ人地区にはイスラエルの軍事基地や駐屯地など、多くの非合法建築物が存在するが、その数は正確には分かっていない。

 1987年12月、ガザ地区においてイスラエル人の乗ったトラックがパレスチナ人労働者の乗ったバンと衝突し4人の死者を出したのをきっかけに、占領地中にイスラエルの占領に反対する「インティファーダ」と呼ばれる民衆蜂起が始まる。この蜂起は世界中に衝撃を与えることとなったが、その内容は武器を持たない少年たちが、戦車や銃器を持ったイスラエル兵に向かって投石するというものであった。それに対しイスラエル軍は、信じがたいことに、石しか持たぬパレスチナ人に向かって容赦なく発砲し、インティファーダによる死者は1500人にも達すると言われている。その後1993年、イスラエルパレスチナ解放機構PLO)の間で交わされた「オスロ合意」により、パレスチナ暫定自治協定に基づいたパレスチナ暫定自治区が設立され、この蜂起は一応の終結をみる。しかしその後は和平交渉が進まず、2000年9月には、シャロン首相が数百人の兵士と警察を引き連れて、イェルサレムにあるイスラム教の聖地、アル・アクサ・モスクの丘を訪問するという挑発行為に出たため、第二次インティファーダが引き起こされることとなった。今回の停戦「宣言」により、第二次インティファーダ終結するのだろうか。また、一旦終結したとしても、いつの日かまた、パレスチナの少年達がイスラエル兵に向かって投石を始めないという保証はあるのだろうか。

 一つだけ確実に言えるのは、パレスチナ問題はそう簡単には解決しない、ということである。かつてユダヤ教徒イスラム教徒、そしてキリスト教徒は皆、何の問題も無くパレスチナの地に共存していた。そこに大量のユダヤ人が突然流入し、土地を買収したり、しまいには強引に没収したりしていくうちに互いを憎み合う感情が生まれた。そしてそういった感情は、時間や政治の流れを経て徐々に〈イスラエル人〉対〈パレスチナ人〉という対立の構造を形成するに至った。それを解体し、多くの人びとが持つ憎しみの感情を解消するのには、対立を生むよりもはるかに多くの時間を必要とするであろうし、また非常に困難なものになるだろう。そして恐らく、パレスチナ問題が解決するのは遠い未来になることだろう。しかしだからと言って、問題の解決を未来の人びとへのツケにしてはならない。一刻も早く、何らかの行動――それが例え微々たる効果しかもたないとしても――を起こさねばならない。そういった気持ちに駆られた多くの人びとがパレスチナに入り、その現状をわれわれに報告してくれている。その報告が時として故意に歪められていることもあるので、気をつけなければならないのだが、メディアによって垣間見ることのできるパレスチナは、悲惨さを見せつけると同時に、時としてほんの僅かながらも希望をみせてくれる。


 例えば、『ガザに死す』というドキュメンタリーでは、ガザ地区を取材中(イスラエル側は認めていない模様だが、恐らく)イスラエル兵によって射殺された英国人カメラマンの映像と彼が取材していた子どもたちへの追跡インタビューを観ることができる。その中に登場する、彼が取材を続けて来た武装勢力に協力するパレスチナ人のある少年が、このカメラマンの死後、武装勢力への協力をやめたと言う。彼の中で一体どんな変化が起きたのかは分からない。彼がそもそも協力を始めたのは、イスラエル兵に友人か家族(記憶が定かではない)を殺されたからだった。すると今度は、恐らくは滅多に会ったこともない「外国人」がやって来て、ちょっと仲良くなったと思ったら同じようにしてイスラエル兵に殺された。正直なところ、彼の心情を想像してみようとする勇気さえさえ私にはない。だが少年は、武装勢力のアジトに通うのを止めた。 

 このカメラマンの死それ自体に何らかの意味があるとは思えない。しかし、その死をきっかけに考えを深め、自分の行動や信条を顧みることができる人がいれば、その人はカメラマンの死に何らかの意味や価値を付与することとなるだろう。武装勢力への協力を止めたこの少年が今、また協力を再開している可能性があることは否めない。しかし私は、少年の中でおきた劇的な変化が、彼のそれまでの考えを転換させたのではないかと想像し、小さな希望の一つとしたい。彼が自分の中で起きた変化を言葉にし、周りの人びとに話したり、書き表わしたり、何らかの形で表現することができるようになるとき、この小さな希望の光はより強力なものとなっていくだろう。

 また、『プロミス』というドキュメンタリー映画では、パレスチナの子供とイスラエルの子供を交流させるという試みが行われていた。この試み自体は制作者の意図するような、もしくはそれ以上の結果を生んだといえるだろう。あまり信仰心の深くないイスラエルの双子の少年たちが、パレスチナの占領地に遊びに行くのだが、言葉の障壁があるにも関わらず子どもたちは、サッカーや踊りなどを通じて遊び、互いに何ら変わりのない「人間」であることを実感する。そんな彼らは別れの際、現状として立ちはだかるイスラエルパレスチナのどうしようもない深い対立を前に涙を流さずにはいられない。

 この映画の最後で、この交流から数年後の10代後半くらいになった子ども達が再び登場する。一番印象的だったのはイスラエルの双子の片割れの、「あの時のことは忘れてないけど、今は自分の問題も一杯あるんだ」という内容の発言である。確かに、日々の生活に追われ、平穏な日々(勿論彼らも自爆攻撃を受ける危険性と隣り合わせだが)を過ごすうちに、パレスチナの子どもたちとの思い出は色あせていくことだろう。だが、自分と楽しい時間を共有した人間を、人は殺すことができるであろうか。もっと言ってしまえば、一緒に笑い転げた人間の家族や友人の命を奪い去ることはできるだろうか。

 『プロミス』に登場したイスラエルの双子が兵役に就きパレスチナ人を前に銃を構えるとき、パレスチナの子どもが自爆攻撃を決行しようと思うとき、彼らの中に、一緒に遊んだ時の記憶が一瞬でも蘇ったとしたら、彼らは殺害行為を思いとどまるのではないだろうか。そんな夢想をするのは馬鹿げたことであろうか? 私にはそれを判断する能力も権限もない。だが一つだけ言えることがあるとすれば、憎む相手を憎しみの象徴としてではなく、一個人として見ること、知り合うこと、交流することで憎しみを溶解させるプロセスが始まるのではないだろうか、ということである。個々人が対面し、出会い、会話し、互いを知り合うという次元においては、〈イスラエル人〉対〈パレスチナ人〉という概念的な対立は存在しえない。〈パレスチナ人〉を人間とも思わないかのように殺害し、家を潰していく〈イスラエル人〉にとって、〈パレスチナ人〉は憎しみの象徴でしかなく、家族や友人がいるような一人の人間ではない。同様に、入植地との分離壁の向こうにロケット砲を打ち込んだり、自爆攻撃を行ったりする〈パレスチナ人〉にとって、攻撃対象たる〈イスラエル人〉は単に悪の象徴であり、人間ではない。一人一人の顔が見えなくなり、一人一人が人間であることを完全に忘却するという異常な状態が続く限り、パレスチナイスラエルの終わりなき暴力の応酬が罷む日が訪れることはないだろう。

 カメラマンの死から何かを感じ取った少年、そして『プロミス』に登場した子ども達。彼らが得た経験は、パレスチナイスラエルの人口に比べたら消え入るように小さなものでしかない。だが、そういった小さな経験が個人個人のレベルで繰り返されるようになることこそが、パレスチナ問題解決の小さな、しかしながら大きな可能性を秘めた手がかりになるのではないだろうか。

 今回の停戦「宣言」は至って政治的な交渉の結果である。だが、パレスチナイスラエルの人びとの間にある、憎しみの感情は政治的な交渉だけでは解消し得ないだろう。両陣営からそれぞれ有力な政治家が登場し、有能な仲介者のもとでイスラエルパレスチナの和平が成立する、などという事態を夢想するのは、私にとっては非常に虚しいことだと感じられる。それよりもむしろ、『ガザに死す』や『プロミス』がわれわれに垣間見せてくれる小さな希望の光が、パレスチナイスラエルのあちらこちらで輝き始めることに期待を寄せたい。