「ことばの力―名指しと暴力」を聴講


 以下の文章は、2010年7月18日に行われたオープンキャンパス社会学科モギ講義で聴いてきたお話しを、同じ先生による別の講演で聴いたことや、私の感想を織り交ぜながら、書いたものです。え? 卒業生なのにそんなイベントに行くなよ? いいの、いいの。開かれたキャンパスに入っちゃいけないひとはいないんだから。

 模擬授業のタイトルは「ことばの力―名指しと暴力」。

 まず、先生が昨年度にしてきた仕事の紹介。サバティカルの一年に本一冊、「現代思想」や「ユリイカ」に数々の論文、そして4月に入稿したばかりで、これから「思想」に掲載される四部作を書き上げるという、どっひゃーな仕事量。なかでも「ユリイカ」は高校生の間でも知られてるみたいで、感嘆の声が上がってた。あたしはどれひとつも知らずに、オープンキャンパスも行かずにテケトに社会学科に入ったけど(そういう意味ではプランクトンだったと言えるかも)、センセの講義を始め、あれこれと好奇心をそそられるうちに、こういった雑誌のバックナンバーを漁るような子になってた。全くラッキーな選択だったとしか言いようがない。

 さて、ゲンナマの状態で見せられた四部作のタイトルが明かされる形で、講義は実質的な内容に入っていく。「で、そのタイトルはですね」と「セックス」と黒板に書き付けるセンセ。さぞかし、驚いただろうなー、高校生やその保護者。しかも配られた資料を覗くと何やら「中絶」の文字が‥‥。

 しかし、驚く間もなく話しは進む。大学というのは行政と同様、縦割りに区切られていて、各学科は他の学科からは自立している。しかし、学術的な「探求」というのは必ずしも区切られた学問のなかに限られることはない、と。国語と数学の証明が似ているように、学科というのは繋がらざるを得ない。「性」というのは色々な学問が、それぞれの仕切りのなかで扱ってきているテーマである。ここで、社会学や人類学、歴史学、犯罪学、臨床心理学、法医学や生物学などで、「性」をめぐる視点がどう異なるかを概観。この時点で、センセがどんだけの学問を横断してるかが強力に、けど何気なく披露されちゃったよ、いやはや……。更に言えば、「社会学とは何か?」と問うことに余り意味はなく、社会学が何をどう扱っているか、他の学問との違いは何なのかという例を知ることの方が大切だってことも分かっちゃう。あることばの意味を尋ねたとき「ふふふ、「ことば」はねぇ、意味じゃないんだよ、使われ方なんだよ」と言われたのを思い出す。そのときはポカーンと「だって、アフォーダンスってなに‥‥?」ってなったのだが、今おもうと、これほど良い回答はなかった。アフォーダンスについて、とにもかくも読んでみることになったし、真に先生の言う通りで、だから外国語で知らない単語があるときは、「ねえ、コレってどういう意味?」ではなく「この単語、どういうときに、どう使う?」と質問するべきなのだ。

 さて、「性」をめぐる現在の学問体系についてだが、まず人文科学は人間のセックスしか扱ってこなかった。性をザックリと「セックス/ジェンダー」と分けて、「社会における文化現象としての性の役割であるジェンダーはうちらの領域、有性生殖や発生といったセックスについては生物学でどうぞ」ってな立場をとってきた。またこれは人文科学一般に言えることだが、経験を人間の特権だと思い込んでる、つか基本、何でも人間中心なのだ。ヒューマニズムはミツバチの物凄いエキサイティングな世界も、ちんけな人間ドラマを模したアニメにしてしまう。一方、生物学は経験を軽んじる。だから「おばあちゃんの知恵」も「科学的根拠はないから」と、戯言として片付けてしまったりする。

 そんななかセンセは、シンプルな疑問を投げかける。「我々は性について何を知っているか?」と。有性生殖開始(オス/メスの発生)の瞬間がセックスの発生なのか? どうやら違うらしい(バタイユ、悔しいだろうなぁ……)。バクテリアなどの働きにより、人間は自分がとりこんだものになってしまうことはない。たとえばキャベツを食べてもキャベツ人間にはならない。この影響されないシステム、則ち体細胞と性殖細胞が別れた瞬間、約6億年前にセックスが発生したと考えられている。って、正直、この辺の話しはよくわかんなかったから、「セックス」を書く際に参考にしたという本たちを読みながら、このもの凄い論文の公開を待つことにするわ。緒科学という足枷から解放されたセックスが、どう羽ばたくのかっ! うー、楽しみっ!

 と、ここまでが、昨年度までに取り組んだ仕事の紹介。豪華すぎる前菜に圧倒されたが、好奇心という欲は、尽きることがない。今、先生が行っていることに話しは移って行く。

 「言語行為論」という哲学の一分野が存在する。もちろん、言語を相手にした学問なのだが、論理学(真/偽の判定)の範疇にとどまっていて、あまり現実的なことをしていない。一方、ことばを臨床の場で有効かつ強力に用いたのが、アメリカのミルトン・エリクソン Milton H. Erickson(1901-1980)という心理療法家。彼は患者に「病名」をつけることなく、それぞれの人にそれぞれの方法を用いて治療を行うから「理論」も具体的な「治療法」も確立せず、ただただ、見事な治療例が残されている。それらを読んで驚嘆するのはとても簡単なことなのだが、そこからもっと踏み込んで分析する、というのが目下のお仕事だそうだ。で、この際に重要なのは「性」を巡って異なる視点があるのと同様、「言語」ないしは「ことば」というのも、学問によって全く違うとらえ方があるということ。

 社会学はことばを「事実を規定するもの」「メッセージを伝達するもの」と定義してきた。一方、ジョン・L・オースティン John Langshaw Austin(1911-1960)はことばを、真偽の記述ではなく、言語を使う=行為であるとする。例えば、裁判や結婚式において「誓います」と言うことは、そのまま、誓う行為となる。これを「発話内的行為」と呼ぶ。一方、「誓います」と言うことによって裁判や式を進行させる、つまり「誓うこと」とは別の何事かを成し遂げることを「発話媒介行為」と言う。この二つを区別することがとても大事。

 さて、これを踏まえた上で、エリクソンのある事例が紹介される。このケースのなかで、彼は一体なにをやっちゃってるのか? 

 20代前半の未婚学生カップルの間に子供ができ、双方の両親は中絶しないなら財政支援を絶つと二人を脅したため、「中絶しなきゃ、中絶しなきゃ、もう中絶しかない」という思いにとりつかれた状態で、エリクソンに会いに来た。エリクソンはこの二人を見て「強迫神経症タイプだという印象をもった」(プリントより引用)。強迫神経症というのは、ある観念がなかなか離れてくれず、行動を支配されてしまい、その観念によって自らを不自由にしてしまう症状。「手が汚い」という思い込みから、手を洗い続けたりするのがその一例。さて妊娠した女子大生は本当に中絶するとしたら、残された猶予はあと一ヶ月という段階だった(それを過ぎると「堕胎」になってしまう)。だから、決定はなるべく早くされなくてはならない。それに右を向いても中絶、左を向いても中絶、中絶音頭のまっただ中にいる彼らはそもそも、「産みたくない」と思っているのだろうか? カップルの強迫神経的な性格を利用して、エリクソンカップルが本当に望むことを本人たちに確かめさせる。セッションのあと、このカップルは「どんな状況の下でも赤ちゃんの名前について考えてはならなかった」(プリントより引用)。「命名」という行為により、この二人が中絶“できなく”なるよう、エリクソンは暴力的に介在する。確実に育っている生命があることに注目させると同時に、「名前を考えてはなりません」と彼は言う。名前を考えるように威圧的に命令しても意味はない。むしろ、命名を自らするように、仕向けてしまったのだ。

 では、「命名」とはなんなのか? ここで、西谷修さんの、緻密で強力な文章が引用される。お手数ですが、『理性の探究』(岩波書店)39-40頁をお読み下さい。「発見」された土地をヨーロッパ人が「アメリカ」と名付けたことが、「ひとつの設定行為」となり、「アメリカ」と名付けられる前にそこにあったもの全てを抹消してしまった。命名という行為の暴力性が明らかにされる。そして「人間」や「国」というのも何ものかによって制定されたものであり、それらが如何に暴力的になれるかを物語るのが109-110頁からの引用。ブッシュ政権のもと、「テロリスト」の巣窟とされたイラクファルージャが徹底破壊され、何もかもがブルドーザーで埋められてしまった、という信じがたい事実。ブッシュ政権最大の「功績」は、「テロリスト」や「アルカイダ」と名指した相手を抹殺して良いという「正当性」を確立したことだ、と常々あたしは思う。「アルカイダ」ってそもそも、組織として存在しないし。ありもしないのに「テロ組織」って名付けたから、テロを計画したり実行したりする誰もが「アルカイダ」を名乗れることになっちゃった。そんな世の中に暮らす我々が直視しなくてはならないのが、ピエール・ルジャンドル Pierre Legendre(1930-)の重要な一文だ。先生は黒板に書き付ける。「ヒトラーの暴虐は、武力によって終止符が打たれたのであって、議論によって終わったのではない」(『ロルティ伍長の犯罪』人文書院、1998年)。筆記用具を持っていたひとは皆、この言葉をメモして帰ったはず(この文章がどれだけ、彼らの思考をaffectすることか!!)。 我々はナチズムが生まれたままの社会に生きている。「テロリスト」という暴力的な名指しの対象になると、際限なき暴力が国際政治で正当化されてしまう。「伝達のツール」なんてのでは済まされない、暴力性を持つ言葉。そんな言葉を、人を幸せな方向へ導くために使ったのがエリクソンだった、という訳。

 ここで先ほどの事例に回帰し、具体的にエリクソンがどんな言葉で二人を導いていったのかが明かされるのだが、全文をプリントから引用するのが面倒なので、とりあえず、彼がやってのけた戦略をかいつまんで書いておく。

 エリクソンカップル自身が言ったことをゆっくりと繰り返しながら、確認する。「他に選択肢はないと、君たちはゆったね」「はい」「何を差し置いてもさっさきに、中絶すると私に言ったね」「はい」。カップルは、こうしてa.「イエス・セット」に嵌められる。ピザと10回言わされたあと、肘をさされて「これは?」と訊かれると「ひざ」と言ってしまう(「10回クイズ」)のと同じで、詐欺師がよく使う手法。勿論、エリクソンはこの二人に詐欺を働こうとしているわけではない。しかし「はい」「はい」と殆ど無条件に言ってしまうような状態にすることで、ゆっくりと確実に問題の核心に入って行き、その上で、確実にそう(中絶)しなくなる「警告」がある、と言い出す。だが、その内容はなかなか教えてくれない。このb.「じらし作戦」を前に、身を乗り出して話しに食いつく二人。更にエリクソンは、低い声量でc.「ささやく」。だから身を乗り出しながら、聞き耳もたてる。そう、エリクソンはしっかりと、a.からc.の戦略でもって二人の関心をグッとひきつけているのだ。

 さて、中絶を確実に止めることになる「警告」があることをちらつかせ、その「警告」を教えてあげてもいいけど、君たちは本当に中絶したいのかどうかを、自分たち自身が知らなきゃならないよ、とエリクソンはぴしゃりと言う。その上で大切な事実――これから男の子か女の子になろうとしている生命が正に今、お腹のなかで育っていること――に注目させる。そして最後の仕上げ。エリクソンカップルに、このオフィスを出たら、名前を考えるなんていう真似してはいけない、そんなことしたら、「子供を持ち続けるよう余儀なくされてしまうからね」(プリントより引用)と警告する。
 中絶するしかない、という思いに捕らわれているカップルにエリクソンは、「中絶すればいいよ、したいなら」と言っておき子供の名前を考えることを禁ずる。「ほーれほれ、これ美味しいんだよぉ〜」と見せておいて、箱にしまっちゃう。禁止という誘惑にかられる二人。「中絶」で四方八方を埋め尽くされていたカップルの目の前に、生まれてくる生命にとって、言葉の世界への最初の足がかりとなる「命名」という行為が、届くか届かないかスレスレのところにつり下げられる。そりゃなんとしてでも両親を説き伏せるし、産むよね。それに彼らはとってもいい親になったはず。

 言葉がどれだけの力を持つのか。ともすれば人を破壊に導くことにもなる強大な言葉を、最大限にポジティブに活かしたのがエリクソンだった。因みに、この間亡くなったレヴィ=ストロースも言葉の力を知った上で、ギリギリの地点で言葉を紡いだひとだった、っていうのが「現代思想」追悼号に載っている「迫り来る退屈に抗うこと」って論文に書かれていて、これはもう、考えうる最高の追悼だと思う。「ことばの力」に興味を持ったり、「なるほど、それこそ私が知りたいことだった」って思ったひとは、是非、読むべし。