公開セミナー:「ミシェル・フーコー使用法 Michel Foucault, mode d'emploi」

慶應義塾大学教養研究センター主催公開セミナー「ミシェル・フーコー使用法 Michel Foucault, mode d'emploi」
日時:2006年6月20日(火)17:00〜19:00
会場:慶應義塾大学日吉キャンパス 来往舎 シンポジウムスペース(1F) ※仏語通訳つき
協力:在日フランス大使館/日仏学院


 フランス国立科学研究センター(CNRSっていうの?)の研究員で、ミシェル・フーコー・センターの所長、歴史家のフィリップ・アルティエール氏が来日したのをきっかけに開かれた公開セミナー、「ミシェル・フーコー使用法 Michel Foucault, mode d' emploi」というのに行って来た。ざっと、様子を。

 まず、アルティエールさんが「フーコーのアーカイヴ」というタイトルのお話をし、それを受け継ぐ形で、芹沢一也さん、原宏之せんせ、廣瀬純さんの若手(多分、司会の高桑和巳さんを含めた日本人は40いってないんじゃないかしら。原先生の貫禄は40過ぎのものかもしれないけれど、とにかくアルティエールさんも含め、「若い」研究者が揃った感じだった)が、現在行っている研究に於いてフーコーをどのように「利用」しているか、手の内をチラッとだけ(なんせ時間が十分ではなかった)披露した。

 司会進行かつ企画者である高桑さんはまず、フーコーの「解説」が溢れている現状に飽き飽きしており、彼の作品を「単に読むのではなく、より深く理解した上で使いまわす」(当日のプリントより)必要があると説く。フーコーのコレコレの概念はこういうことである、とか、この概念とあっちの概念はこう違うとか、そんなことやってんじゃねぇ、彼の本は「アクセスへの扉・鍵」なのだ。そして、フーコーの書物は近現代に対する闘争であり、「ガジェット」(うーん、ボードリヤールを思い出す)として消費されるようなもんではない。昨今はしかし、一口サイズにカットされたフーコーを食し「きゃっ、オイシぃ」なんてやっている連中がいる。そんなことをしていないで、フーコーの道具箱を闘争に使いまわすべきだ。そして、現在この道具箱のマニュアルの波があちらこちらから起きている。そして今日は、アルティエールさんにはこの道具箱について、そして続く三人にはいわばそのユーザーとしてお話をしてもらいます、といった具合に、「フーコーの使用法」というタイトルについての言及があった。どうも「使用法」という言葉がしっくりこないので勝手に換言してしまうと、フーコーを知識でなく武器とせよ、フーコー機械を作動させよ、とこういった感じになるんだと思う。
 それでは、本題に。結構すっ飛ばしていく。

●フィリップ・アルティエール「フーコーのアーカイヴ」
 6つのしてい(視程?)を述べる、とのことだったんだけど、4つしか書き取れなかった。
 まず第一に、フーコーのアーカイヴは生成に関わるのではない。生成論的読解、始めと終わりがあるような「作品」ではない。平行線が何本も引かれている軌道、線であって層ではない。フーコー自身もある序論で書いているように、「どう書いたか」の痕跡を残すのではなく、「読み手が戦いの中でどう活用したか?」なのだ。また、線は一度書いたら書き直さない。インタビュー起こしの作業でも、ある部分を消してそこだけ取り替えるということはせず、まっさらから書き直していた。ここには常に別の点に向かう作業があった。
 次に、フーコーのアーカイヴは「宝物」ではない。フーコーは意見を自分だけのものにして隠したりはしない。何らかの形で意見は全て発表されている。だから今からいろいろほじくり返しても、未発表の原稿なんてのは見つからない。今年フランスでは「マネーについて」という新著がでるが、これに関しても既にチュニジアのインタビューで喋っていることであって、我々は読んだことがある。最近、続々出ている「講義録」もフーコー・センターでずっと前から読むことができたし、この講義には大勢の学生が参加し、録音している。(けどやっぱり、講義録に限らず、「publish 出版」はとぉーっても有り難い。)出版されなかった原稿を探すのではなく、彼の作業の地理学を検討すれば良いのだ。
 三つめ。フーコーアーカイヴはビオグラフィー(伝記)ではない。「素顔の見えない哲学者」(ル・モンドの記事のタイトル)フーコーは、自分の個人的な生い立ちには何の価値もないと思っていた。だが「マイナー・アーカイヴ」と言えるものがある。70年代の刑務所研究の周りには、他の人の伝記的なもの、他人からの手紙、精神病者の手記などがある。例えば、ピエール・リヴィエール、エルクリーヌ・バルバン(女から男になった人)。
 四つめ。聖骸布は含まれていない。フーコーは原稿へのフェティシズムがないので、下書きには価値がないと考えていた。よって、フーコーセンターにも「テキストの展示ケース」みたいなものはない。『監視と処罰(監獄の誕生)』に載っているメモや絵、これぞがアーカイヴであって、神聖化されることは望まなかった。アーカイヴのパンテオン化とは無縁で、あくまでも「ある読者のアーカイヴ」という位置付けである。
 下書きは取っていなかったけれど、図書館での膨大なメモはとってある。図書館でフーコーは、使えそうな語を全て書き写すという、書記みたいな仕事をしていた。メモは束ねてテーマをつけてあって、30年間分(!!!!!)のファイルが保存されている。(20テラくらい軽くありそう。)
 最後に、フーコー・ユーザーがすべきことは、メスを持って事件や芸術を解剖することである。

芹沢一也フーコー、方法と介入」
 芹沢さんは、日本の近現代における、精神医学と刑事司法のコラボレーションによる犯罪者を取り囲む言説・扱いの変化、そして現在の問題点などを解説してくれた。面白かったんだけど、この発表内容は既に著作になっているのではないかと思われるので、特にここには書かない。(それにしても、犯罪について語るとき、ルジャンドルという起爆剤がないとどこか物足りないのはあたしだけかしら。少年犯罪や凶悪犯罪が統計的に減っているという事実を持ち出して、「マスコミが煽っているだけで、今の日本はそんなに危険じゃないよ」と主張するのは全然かまわないんだけど、「法・父・言語」の権威失墜という点はやっぱり見逃せない。)

原宏之ディスクール分析の現在---発話行為と言説編成」「言語態分析へ:言説編成と発話行為の間」
 シンポジウムの場で発表者が突然、「諸君! 我々は‥‥」といきなり演説口調で叫びだすっていうことはないし、もしそんなことがあれば、「不適切」だと感じる。なぜならシンポジウムという「枠組み」があるから。では、この「枠組み」はどう出来(形成され)るのか?
 1960年代後半、フーコーは『知の考古学』と『言葉と物』において、科学史ディスクールについて取り組んだ。70年代になると、「ディスクール分析」(アー・デー adでいいのかな?)というのがフーコーとは離れたところからでてくる。これは、ミシェル・ペシューの『ディスクールの自動分析』(1969年)が源流となっていて、情報科学的に言葉を集めて計量分析をしようというもの。一方フーコーのいう「アーカイヴ(アルシーヴ?)」は、発話内容の他に、実際には語られなかった発話内容の両方を扱う。つまり「なぜ、その言葉が選ばれたのか?」、なぜ、「なぜ」であって他の語ではなかったのか、ペシューらの分析に欠けているディスクールの潜勢力をも扱っている。「誰が、何を」言ったのかを情報として分析するのではなく、語った主体が言説編成あるいは社会のどの位置にいるのか、を問題にする。これを「非人称の分析」と呼んでいる。これに対して、発話行為の分析というのがある。(これの説明がよく分からなかった)「喉が渇いた」というのは、「今」に関わること、一方「彼女は抑鬱だ」というのは何週間か、何年かに関わることで、発話そのものに含まれる行為の分析をする。現在のアーデーは、発話行為の分析に傾きつつあるが、原さんの問いは発話行為と言説編成の分析をどう結びつけるか、というところなのだそうだ。具体的な例として、敗戦後、部下を殺させた隊長かなんかについて、加害者かなんかから証言を取ると言うドキュメンタリーの会話分析を見せてくれた。発せられた言葉だけでなく、どの方向を見ていたかとか、犬の吠える声とか、なんだかいろんな情報を記号化して分析するんだとか。こうした会話分析によって、順番や意味論でない言葉の分析から、意味が見えてくる、とのこと。(根気がいりそう! オースティンとかも関わってくるのかなー?)

廣瀬純「映画を考えるためのM.フーコー使用法」
 映画のみならず、南米の研究もしている。この二つがどう結びつくのか、一言でいえば、それは自分が「左翼の知識人」だから。(自らこう名乗る人ってちょっと素敵かも!)
 南米ではたくさん面白いことが起きているのに、民族運動のアクチュアリティ見たいのに関する日本語のテクストが全然ない。日本語の言語空間の痛ましい状態。スペイン語をやっている人はたくさんいるのに、なんでアカデミックなサークルとかが出てこないのか? 日本のメディアの、海外通信社の記事をコピペするだけという、表面的な状況に黙っているのだろうか? こんなんならボクがやる、これは左翼の知識人としての義務だ、ということで南米に注目している。実はこの理由は重要でないわけではなくて、南米の動きの中に映画的パースペクトを見ている。(ここんとこ、意味が繋がらないよー。)第二の理由は、日本のメディアが単にコピペだけしているのみならず、そもそも、通信社の記事、情報が痛みのない他愛のないものであるから。「痛みのない他愛のない」情報や記事、テクストといったものを説明するためにフーコーを用いる。あるいは、フーコーによってこの問題系に辿りつかされたのかもしれない。
 『知の考古学』より引用。「ディスクールが記号でできているのは勿論のことだが、やっているのは物事の指示以上のこと。言語には還元し得ないものなのだ。」世界を駆け巡る情報がとんでもないと言っているのは、この「以上のこと」を説明しようとしていないから。左翼と呼ばれ様が右翼と呼ばれ様が、いずれにせよどんな新聞も大(マス・)メディアも、ディスクールがやるという「以上」だとか「余剰」を出現させるような描写をしていない。
 以下、大雑把に分かったことだけまとめる。南米は近年「自律性 アウトノミー」を熱望している。ボリビア、アルゼンチン、メキシコ、ブラジルetc...新たな社会運動が起こり、「プログレシスタ 進歩派」政権が誕生している。ところで何の自律性が問題になっているのだろうか? 少なくとも三つある。合衆国に対する地域的独立、国民的形式、国民国家の自律性(例えばグローバル化した資本に対して)、資本性経済や代表制政治に対する共同体、コミューン(バリオ:廣瀬さんのHPで読める文章によると「南米の都市下層」のことらしい)型形式のアウトノミア。
 こうした南米の動きを、「地域的・国家的自立は進歩派の指導者/バリオ型が民衆」と分けてしまいそうだが、こう考えるのは間違いである。本当の分配の軸は、政権と民衆の間でなく、ディスクール的なものと非ディスクール的なものの間にある。軸を引き直して考えると「地域的統合がディスクール的な部分/バリオ形式は非ディスクール的なところ」でそれぞれ問題となる。(再び次との関連がつかめず、、、)(これが?)運動そのもののうちにパラドクシカルな状態を生んでいる。例えば運動者自身が「国家の自律を!」とはなしながら、自主管理のプロジェクトを進めている。例えばボリビアでは水の民営化に反対して「共同管理を」と言っている人たちが一方で、ガスの国有化を訴えたりしている。(なんかこの例え、よく分からない。)ディスクール的/非ディスクール的の間に生じる齟齬を‥‥。(分からんかった。が、とにかく)齟齬を描写すべきなのに、ル・モンドもイル・マニフェストも、進歩派政権の誕生は、民衆運動から出て来た現象だと書くのを厭わない。これはまるで、オフ(画面外)の声が物の見方、イメージの決定になるようなトーキー映画を見ているかのようだ。齟齬を描写しなくてはならないし、これこそが我々を思考させる。(こういった点で)ラテンアメリカの運動はアウトノミーを知る良い機会なのだ。そして、映画と南米には「齟齬を描写する」という点が共通しているのだ。(廣瀬さんの発表は「ディスクール」って概念を分かっているという前提があるようで、少々分かりにくかったな。)

 仮にフーコーというお題を出されなくとも、みなさん自然に自分の研究にフーコーを部品として取り入れているだろうな、とそんな印象だった。とりあえず、内容だけざっとまとめてみました。