うれしいもんはうれしいの。

 今年も街が、イルミネーションでキラキラして来た。クリスマスの到来だ。よく、「日本人はキリスト教とは何の関係もないくせに、クリスマスだけは大騒ぎする。クリスマスがなぜ目出たいかも理解せずにあんな風に、日本流だか商業主義だか知らぬが、めちゃくちゃに祝うのは止めてほしい。せめて、なぜ目出たいのか、何を祝っているのかぐらいはちゃんと理解すべきだ」というような意見を耳にする。「ホンモノのクリスマス」が何たるかを知る人びとは、商業主義丸出しの非キリスト教的な日本のクリスマスとそれに流される人びとを批判する。
 言うまでもなく日本で定着しているクリスマスは、「アメリカ式」である。その証拠が、「白髭の腹の突き出たおじいさん」と「赤い衣装」、「プレゼントを入れた白い袋」それに「トナカイ」という〈記号〉に包囲された、〈サンタクロース〉というキャラクターの存在だ。〈サンタクロース〉は、ヨーロッパ各国の神話や伝統が混ぜこぜになり、最終的にはコカコーラの宣伝に起用されたことで、アメリカにおける「クリスマスの顔」の地位を与えられたという経歴を持つ。このキャラクターはそもそも、アメリカで「発明」された、クリスマスという重荷を背負わされた〈記号〉なのである。
 アメリカにおけるクリスマスは、ヨーロッパの「伝統的なクリスマス」とは一線を画しており、キリスト教的な意味合いはヨーロッパのそれと比べると薄いといわれている。もちろん、宗教的な側面が完全に失われているとは言えないが、〈サンタクロース〉という「発明品」とクリスマスをセットにすることで成立したアメリカ流クリスマスが、〈記号化〉――キリストの生誕を祝うという「本来の目的」を削り取るという企て――に成功している事実は否めない。キリスト教徒が人口の1割にも満たない日本という国に、〈クリスマス〉という行事が定着できたのは、〈サンタクロース〉という無敵のキャラクターによって、クリスマスが記号化していたからだ。
 クリスマスは記号と化したことによって正に、非キリスト教国に「輸出」することが可能になり、これほどまでの強大な影響力を非-キリスト教者に及ぼすことができるようになったのだ。その影響力たるや想像を絶する。何せアメリカには、クリスマスを祝えないことを残念がるユダヤ人がいるというのだから。だが、サンタクロースというキャラクターと、クリスマスが重なり合ったその時から、クリスマスの〈記号化〉は始まっている。そして言うまでもなく、多くの日本人は、初めから、消費対象として差し出された〈記号〉としての〈クリスマス〉しか知らない。
 だから、はっきりと言ってしまおう。〈クリスマス〉に浮かれる人びとを批判するのは自由だし、宗教行事としてクリスマスを祝おうとする人たちが憤慨するのも分からないではないが、そうした批判や憤慨は、的外れで虚しい。人びとはただ単に、クリスマスを〈記号〉として消費しているに過ぎず、現に〈クリスマス〉パーティーでキリストの生誕を「祝う」人などいない。彼らは、マスコミや多くの商店が差し出すイメージによってしか、〈クリスマス〉を知らないのだ。だからもし、日本中の店が〈クリスマス〉商戦を止めたら、人びとは12月24日を「師走のある一日」として、慌ただしく素通りして行くことだろう。だが現在の様子を見る限りでは、日本にしっかりと根を下ろしている〈クリスマス〉という木を引っこ抜くのは難しい。「正しいクリスマスの知識」という農薬を与えて、悪しき根を駆逐するという理想を抱く人もいるかもしれないが、残念ながら、「正しい知識」も〈クリスマス〉を正当化、あるいは神聖化する〈記号〉に過ぎない。(「正しい知識」の〈記号化〉は〈クリスマス〉よりもむしろ、〈サンタクロース〉に匹敵する〈記号〉を持たない〈バレンタイン・デー〉に顕著に表れている。)
 私は、「正しい知識」の片鱗を持った上で、「クリスマスなんて別に嬉しくねぇよ」と思っているのだが、世の浮かれた雰囲気に愚直に流されるのは好きだ。そこで、〈クリスマス〉のお約束に則って、親しい人とプレゼントの交換をしたりする。それに考えてみると、プレゼントをevenな立場で「交換」するという機会は他になかなかない。プレゼントを贈り、同時に贈られる。これは結構素敵な経験だ。毎年この時期になると、批判や非難、非-モテの僻みに味付けされた嫌味を耳にするが、私は、こんな機会を提供してくれる〈クリスマス〉を、好きなように享受する。だから今年も、プレゼントを交換した後は、礼拝後の教会に潜り込んで美味しいものをいただいてくるこことにしよう。Merry Christmas!