不可能な要求

 母親というのは、不可能な要求を当然のように突き付ける。例えば今さっき、ゴキブリが羽ばたくのを見て、「ぎゃぅぁー」と奇声を発した私に、「そんな大きな声出さないでよ」と冷たく言ってみせた。彼女が言わんとしているのは、「ゴキブリが突然羽ばたくのを見ても、夜中なんだから、大きな声なんか出すな」ということだろう。そんなの無理だ。それに、大声をあげてしまった後にこのようなことを言ったって何の意味もないし、こっちにしてみれば、腹立たしい以外の何ものでもない。びっくりして悪いか。確かに私の声は無駄にでかく、遠くまで通ってしまう。夜中に叫び声が聞こえたら、近隣住民はさぞかしびっくりすることだろう。理解はしているが、ゴキブリの姿が視界に入った瞬間に、そこまで色々考えることなんてできやしない。
 だが、母親が私に冷たく「うるさい」と言ってみせるのも、同じ構造である。恐れおののく私のすぐ傍でパソコンとプリンターと格闘していた彼女はまず、私の騒がしい言動を見聞きし、この騒ぎが「ゴキブリ如き」によって引き起こされたことを知る。これが、股関節が突然外れたとか、刃物で指をばっさりと切ってしまったりなんてことであれば、「あら、いやだぁ」(こういうときの「いやだ」という言い方も気になるが、それは置いておく)と心配しながら飛んできて、傷の処置なりなんなりをしてくれることだろう。
 しかし、「単なるゴキブリ」を見たというだけでは、彼女が反応すべきなのは迷惑な言動のみだ。娘が夜中に奇声をあげた、となれば母親の反応など「うるさい。迷惑。やめろ」以外あり得ない。かくして私は、この不可能な要求に、「だぁーって。今。わぁ! っぎゃぇーーー! だから、そこ。ほら。ぎょぅおー! あーもーやだー」と返すことしかできない。そして、ゴキブリの飛行を目の当たりにしたという恐怖体験からにじみ出た不快感と共に、この不可能な要求に対する、文字通りやり場のない不満を増幅させてしまい、こんな文章を書くにまで至ってしまった。
 別に、母親のことを悪く思ってはいない。だが――将来自分が親になるか否かはともかく――、自分が彼女の場に居たら、「あんまり大きい声出すと、ゴキブリが余計興奮するよ」とかなんとか、もう少し違った反応をしたいものだ。