[刺身その他]、バカに成ること


 昨年(2004年)11月に書いた文章。


 両親が不在なのを良いことに、我が家で餃子・お好み焼きパーティーなるものをやり、その翌日の夕方、うちに泊まっていった二人の友人――酒を呑み多弁になった私の蘊蓄に耳を傾けてくれた愛すべき人たち――を駅まで送り届けたその足で、買い物がてら、何の気無しにスーパーの上階にある本屋へ寄った。「何の気無しに」と書いたのは、本屋へと足を運ばせる理由が自分でも分からないままエスカレーターに乗っていたからで、振り返ってみると最近、何の気無しに行動することが多いような気がする。レジュメを作るための資料集めも何の気無しに行っているようで、目の前にある素晴らしい本を自分が一体どうやって探し求めたのか覚えていないことが多々ある。だから、「こんな本どうやってみつけたの?」と尋ねる友人に対して、「よくわかんない」と首を傾げる他なかったりする。
 ところで先日、『すきまのじかん』という絵本を見つけた。

すきまのじかん

すきまのじかん

「本を開いているのに読んでいるわけでも読んでいないわけでもない、それがすきまの時間」「昼と夜の間の夕ぐれの、ほんのわずかな時間、それがすきまの時間」というようなことが書かれていて、妙に感動した。睡眠に入る瞬間がもしあるとしたら、これもまた「すきまのじかん」なのかもしれない。眠りについてはいないが、かといって意識がある訳でもない。それがあることはわかっているのに、絶対に記憶として捉えることのできない何か。資料を探すのに夢中になっているとき、よくわかっていないのに何故か本屋へ向かうとき、私は「すきまのじかん」にいるのかもしれない。
 さて、何はともあれ私は、本屋のお気に入りのコーナーへと足を運んだ。そしてそこで、何故自分が本屋にいきたがっていたのかを思い出し、ゼミ論の参考になる本はないものかと探索にかかった。するとなかなかの収穫があり、本の題名を頭に入れルンルンしながら階下のスーパーへと向かった。魚好きの私は、両親が不在な期間はいつも、閉店間際のスーパーで値下げされた刺身や寿司を購入し、夕食とする。この日は日曜の夕方ということもあり、家族連れなどでかなり混み合っていた。刺身コーナーには随分と人がいたし、この時間帯に値下げされる刺身はないだろうと思い、諦め半分で刺身コーナーを覗いてみた。やはり割り引きシールが貼られた商品はないようだ。もしあったとしても、どうせ鼻息の荒いおばちゃんたちが嵐のようにかっさらっていってしまうに違いない。「じゃぁ今日は何を食べよう…?」とションボリしたその時、私の目に入って来たのが、[刺身その他(     )  いか・さけ入  300]という10センチ弱四方の小さなパックであった。様々な種類の刺身の切れ端が無造作に閉じ込められていて、奇麗に盛り付けされた刺身のパックが溢れるコーナーにおいて、なんとも侘びしく、肩身が狭そうに端の方に追いやられている。周りのものたちと違い、客に媚びることを全く知らない醜く不揃いな刺身の残骸たち。単なる売れ残りとは違う。「刺身」という商品になりきれなかった、いや、なることが許されなかった屑カスたちの集まり、[刺身その他]。産地などを印字するのであろう括弧によってくくられたスペースには、何も書き込まれていない。創り出した領域に何一つ情報が入っていないとは、一体何のための括弧なのだろうか。まるで、不完全な刺身たちをあざ笑うための虚無な空白を創り出すために印刷されたかのようだ。そして、仮にも「刺身」という名前がつけられた商品であるからか、申し訳程度に切れ端たちの下には大根と大葉が顔を出している。窮屈そうに残骸たちがひしめき合い、「“その他”とでも何とでも呼べっ!」と大合唱しているではないか。私は思わず、「おぉ、これだ!」と心の中で大声を上げた。“これ”と名指しながら即座に2つのパックを手にとったものの、“これ”という言葉によって指し示そうとしたのは目の前にある小さなパックなどではない何かだ。一体何を指そうとして「これだ!」と叫んだのか、よく分からない。とにかく「これだ!」なのだ。後から考え直した上で強いて言うのであれば、300円という値をつけられたこの屑カスの集まりは、「掃除夫でありたい」と言ったドゥルーズ*1の姿を現前させた、と言えるかもしれない。
 ほぼ無意識に手に取ったこのパックは、300円という値段にも関わらず、ずっしり重い。中身をよく見てみると、マグロの赤身や、ホタテやハマチのようなものが入っているようだ。いつもは、売れ残ったが故に閉店前に無理やり値を下げられた、それもほんの1種類の刺身しか口にすることができないというのに、この定価300円のパックにはなんて多くの種類の魚が入っていることだろう。しかもこの二つの商品は、同じ容器に入れられ、同じラベルを貼られ、同等の扱いを受けはするものの、その中身は「いか」と「さけ」という要素以外に何の共通点も持たず、決して互いに同一なものたりえない。そして乱雑にパックの中に押し込められた屑たちは、その全貌を外観からは明らかにしてくれない。だからこそ私は、2つの容器の中身を様々な角度からしっかりと見、考えた上でどちらを買うか決定しなくてはならなかった。慌ただしい風が吹き荒れる夕刻のスーパーの直中で、私はじっくりと両者を比較し、熟考の末、ついにどちらを買うか決めた。そして、この愛しいカスたちを早く解放してやろうじゃないかと、持参したビニール袋に[刺身その他]と共に買ったカップ麺を入れ、袋に入りきらないバナナを手に家路についた。あまりの興奮に、そのカーブが手にしっかりとフィットするバナナが手の上で飛び跳ねる。「これだ! これだよ! そうだよ、これだって!」と、相も変わらず「何か」を指し示す代名詞を心の中で連呼しながら家へと急ぐ。顔は、もはや怪しいと言われても仕方がない程に晴れやかだ。
 家に着くと早速、[刺身その他]を丁重に冷蔵庫に入れ、御飯を炊き、食卓の準備を整える。準備が済むと[刺身その他]を食卓の上におき、まずは記念撮影。パックのままの状態の写真を撮り、次に皿の上に中身を盛り付けてみる。不揃いな断片たちを盛り付けとしてまとめ上げるのは困難な作業だ。それが終わると、皿の上に並べられたいびつながらも感動的な屑カスたちの晴れ姿を写真に収める。更に一捻りし、皿に盛り付けた刺身たちの上からパックのフタをかぶせてシャッターを切る。何故写真を撮るかなどということはもはや分かりはしない。ただ訳の分からない必要性のようなものが私の手にカメラを差し出す。
 肝心の中身はというと、まぐろの赤身、筋っぽい中トロと大トロ(頬肉だったかもしれぬ)、ハマチ、カンパチ、アジ、ホタテがそれぞれ約1.5切れずつと、サーモン(「さけ」でなくサーモンと呼ぼう!)とイカが一切れずつ。イカと赤身はあまり好きではないため普段は殆ど口にしない。だが、[刺身その他]に入ったイカと赤身は格段の味だ。どれもとろけるように美味い。これ程多種の刺身が、我が家の一食のテーブルに同時に並んだことがかつて、そしてこれから先もあり得るだろうか? 商品の残りカスからでも利益を吸収しようとするスーパーの根性万歳! そんなスーパーを生み、[刺身その他]を生産させる資本主義、なかなかやるじゃないか!

 ことが過ぎ去り、[刺身その他]との衝撃的な出会いをなんとか表現したいと思い文章にしてみたのだが、今になって冷静に思い返してみると、我ながらどうしようもないバカであったと溜め息をつかざるを得ない。必死に写真まで撮って、一体何をしたかったのだろうか。なぜ[刺身その他]が私をここまで興奮させたのだろうか。ただ単にお買得だったから嬉しかっただけなのか? そうではないと願いたい。そしてそう願いながら、私が[刺身その他]から感じた「何か」により的確な言葉を与えられるよう、新たなる[刺身その他]との出会いを求め、旅に出るとしよう。

*1:ドゥルーズ。フランスの哲学者。彼は「私は裁判官であるより、掃除夫でありたい」と言ったそうだ。(シェレールの『ドゥルーズへのまなざし』参照 )

ドゥルーズへのまなざし

ドゥルーズへのまなざし

これについて安易に説明なんてできないし、すべきではないと思う。が、私がシェレールの文を理解した限りで言うと、ここで言う裁判官というのは、何らかの価値観にそって、「これはよし、あれはだめ」と判断する人のこと。掃除夫っていうのは、人々がゴミ屑としてポイッと捨て去ってしまったもの(=価値なきものと判断されたものたち)を拾い集める人のこと。実際の裁判官との比較に関してはちょっと触れないでおく。ただ、ドゥルーズの言う裁判官っていうのは、自分の信じる価値観で他人を裁く人のことをも含むのだと思う。価値観なんて、ほんとうに人それぞれなのに、極端な例でいえば「白人はよし、黒人はだめ」みたいにして、一方的に迫る側面がある。その価値観によって自分以外の者を判断するという暴力性みたいなことに敏感に反応したのがドゥルーズのこの言葉だと思う。[刺身その他]を見たとき多分、私はドゥルーズの「裁判官でなく、掃除夫」というのを直観的に思い出したんだと思う。実は判断、裁判官の暴力性ってものに気付いたのはつい最近のことで、自分が裁かれる側に立って初めてこのドゥルーズの言葉を実感するに至ったのかもしれない。