衝撃、あるいは闖入物としての芸術

 芸術が何なのか、よくわからない。美に関係のあるもの、何か高尚なもの、びっくりするくらいに高い値がつくもの、難しくて意味不明なもの。前衛芸術と言われるようなものを前に、「あんなもの芸術じゃねぇ」と悪態をつく、“本物の”芸術を知ると主張する者たちがいる一方、「アーティスト(=芸術家)」たる「ジョンとヨーコ」は、袋の中に入って登場してみせる。果たしてあれは芸術だったのだろうか。いや待てよ、「あれ」という指示代名詞はこの場合、一体何を指し示めしているのだろうか。大きな袋に大人の男女が入っている状態が芸術なのか? 「ジョンとヨーコ」と名乗る人間が袋に入って人びと――その多くは記者たちだったはずだ――の前に表れたから芸術なのか?
 少々大きすぎる疑問を抱いてしまったようだ。例えば、「地球とは何か?」という疑問に答えるのは至難の技だ。なぜなら、「われわれ人類は地球に生きている」と言ってみたところでそれなりに納得は行くが、実際に地球という存在を外から確認したことがあるのは、宇宙へと旅立ったことのある人だけだ。それも、地球を「球」として認識できるくらい離れた所から見たことのある人は、宇宙飛行士の中でもほんの一握りだ。様々な科学的データを出したとしても、「地球とは何か?」という問いに対して、すんなりうなずける答えは存在しない。
 だが、ここまでこの文章を読むことが可能なように、「地球」も「芸術」も、それぞれ一つの言葉――具体的に言えば、「名詞」――として成立している。われわれは一体、どのようにしてこのようなはかり知れない程の幅を持つ言葉を、「言葉」として理解しているのだろうか。嗚呼、再び大きすぎる疑問を抱え込んでしまったようだ。恐らくキーワードとなりうるのは、「概念」という言葉だ。だがこれについては、追求しないでおいて(ドゥルーズガタリ『哲学とは何か』を読まなくてはならないのは明らかだもの)、ひとまず、芸術について考えてみる。
 先日、マルセル・デュシャン*1に行って来た。デュシャンと言えばまず、あの便器だろう。便器に「芸術家」たるデュシャンがサインしたものだ。他に有名なデュシャンの「芸術作品」として、自転車の車輪がある。車輪一つをさかさまにして置いただけ。既成品のシャベルを折った「作品」もあったし、そこからインスピレーションを受けたのか、同じような既成品のシャベルと、そのシャベルの白黒で原寸大の写真を並べている他のアーティストの「作品」もあった。
 結局、何が「芸術作品」なのかなんて、全然分かりゃしない。ただ一つだけ言えるのは、「作品」の置かれる空間や文脈、「作品」とそれを見る者との関係に、芸術と呼ばれるものが関連しているということだ。どんなに高価でも、どれだけ美しくとも、日常生活に溶け込んだ時点で、それは芸術とは呼ばれなくなる。デュシャンの便器を自宅に据え付けて使用している人がいるとしたら、あの便器はもはや芸術ではない。また、どんな立派な画家の絵でも、物置きの隅で埃をかぶっていたらそれまで。人目に触れない限り、それは「芸術作品」とはならない。
 だが「芸術家」が、単なるガラクタや、日常生活にありふれた物を「芸術作品」として発表し、美術館や画廊に置かれることになれば、それは立派な「芸術作品」の一つとなる。そうなるために必要なのが、「直筆サイン」だろう。デュシャン展のグッズ売り場を少し見たのだが、デュシャンのサインのステッカーがあった。「これを貼りさえすれば、あなたの周りの物は何でもデュシャンの作品になります」と言うことだろう。その通りだと思う。ただし、自分が日頃使っている物に貼ってしまっては意味がない。使用価値のないものに貼るべきだろう。となると難しい。いらないものは大抵、ゴミとして認知され、ゴミ箱ゆきだ。物置きにあるガラクタたちは、いつか使えると思っているから捨てずに保管してある。懐かしの物たちも、いつか暇になった時にでも過去を振り返ろうと思うからとってある。本当にいらないものなんて、われわれの日常生活には殆ど存在しないのだ。だからわれわれはわざわざ、便器を見るために美術館何ぞへ足を運ぶのだ。
 ダリ(や確かキリコも)が白紙にサインを書いて儲けていたということ、デュシャンが自分の作品の複製品を拒まなかったということが、少しは分かった気がする。サイン一つで「芸術性」が世に認められるなら、例えば、「巨匠」より凄い作品にサインが無いからというだけで安値がついたり、人知れず闇に埋もれていったりするという現実をどう受け止めれば良いのだろうか。「巨匠」たちの「直筆サイン」の複製はそんな痛烈な訴えのようなものを感じさせる。
 デュシャン展で一番印象に残っている(もしくは、一番印象を言語化しやすい)のは実は、デュシャンの作品ではない。制作者の名前も、作品のタイトルも忘れてしまったのだが、3本の手製定規が壁に据え付けられたコート掛けのようなものに引っ掛けられているだけの作品だ。確かにこれら、3本の定規にはそれぞれ、ちゃんと一定の間隔が刻まれていて、10マスに1回は数字だって記されている。試しにこの内の一本を手に、設計図を書いてみたら、何もかもうまくいくだろう。切り口はまっすぐだし、定規としての役目は問題なく果たしている。だがこれらは決して定規足り得ないのだ。なぜなら、右と左の定規の間隔はどうやら同じなようだが、真中の定規は明らかに左右のものと間隔が異なる。また、いずれの定規にも単位は記載されていない。どんなに厳密に一定間隔を記した棒切れでも、「センチメートル」や「インチ」の基準に則していないならば、定規足り得ないのだ。定規は真直ぐで目盛りが振ってあるだけの棒ではない。"rule"rでなくてはならないのだ。私の1cm、あなたの1cmなんてのがあってはならない。ruleに“則”っていなくてはならない。この3本の定規たちは、「単位だの、ルールだのって何なんだろね?」と挑発してきているように見えた。そしてこの作品が呈示する疑問や挑発、揺らぎは、美術館の中だけに止まらず、日常生活へと侵入してくる。
 これぞ、芸術なのではないだろうか。勉強不足なのは承知な上で言う。芸術とは、日常生活とは異なった空間と、日常生活の間に接点をもたらす「衝撃」のことなのだと。
 非日常的なことや異常なことなんて、そこかしこで起きている。ただ、われわれはそれらを自分たちの生活から突き放してしまう。例えば、昨年(2004年)末の津波に対して、「こりゃ大変だ。(被害を受けた人たちは)なんてかわいそうなんだろう」と思いつつも、「(幸いにも)まぁ自分とは関係ないけどね」ということで、津波という大災害の記憶は時を経るごとに薄れていく。それはそうだ。津波を実際に経験しない限り、津波の印象はメディアを通じてしかもたらされないため、一過性のものに留まる。だが芸術は、時代や空間を超越して衝撃をもたらす。この衝撃は、望もうが望むまいが、日常生活という殻を突き破って闖入してくる。そしてこの闖入物は、記憶喪失になっても忘れないであろう刻印を残してゆく。
 芸術が何かなぞ、分かりもしないし、問うこと自体不毛なのかもしれない。だが、衝撃や闖入物は大歓迎だ。ということで、お次はゴッホ展に足を運ぶとしよう。