「君が代」

 1999年8月、日の丸を国旗、君が代を国歌と定める法律「国旗・国歌法」というのが可決されたそうだ。今までは慣習的に国旗や国歌として使われてきた日の丸や君が代を法的に認めた法律だという。これを機に、公立の小・中・高校における学習指導要領の入学式や卒業式での「国歌斉唱」と「国旗掲揚」の実施を強制する動きが強まったらしい。中でも東京都教育委員会は、偏屈愛国主義者である石原都知事の強力なバックアップもあるためか、特に実施率の低い都立高校に対する圧力を強めているという。そして2003年度はついに、式に参加した生徒の多数が国歌斉唱の際に不起立だった都立学校の教員57人に対し、「国旗・国歌の指導が適切に行われていないと言わざるをえない」として、減給や戒告などの「処分」が下された。
 だが日本には、日の丸と君が代に激しい嫌悪感を抱く人々が多くおり、この一連の流れに断固反対する人たちのグループまでできている。中でも処分を受ける危機にさらされる一部の都立校の先生方は、東京都教育委員会の実質的起立強制策に必死に抵抗をしている。現に私は、2004年3月20日に丸の内公園で行われた「反戦集会」でそのような先生らしき人物を目にした。彼は、冷たい雨が降る中、黄色いレインコートを着、悲痛な面持ちで「君が代・日の丸強制断固反対」というビラを私に突きつけてきた。戦前、日本が近代学校教育制度を利用して人びとを戦争へと導いていったという過去を重視すれば、おじさんが「反戦集会」という場において、あのようなビラを配っていたのも理解できないことはない。だが、正直なところ、あのようなやり方は余りにも救いと希望が無さ過ぎる。そこで、君が代斉唱・国旗掲揚強制政策に抵抗する案をいくつか考えてみた。
 まず、あの悲痛な顔をした先生らしき人のような正統なやり方━━「反対する会」を作る、集会を開く、デモや街頭演説を行いビラを配る、新聞に投書する、など━━は考慮しないでおく。そういった活動はごまんとあるので、わざわざ私が提案するまでもない。また、「国民のコンセンサスが得られるような素敵な国旗や、思わず口ずさんでしまうような国歌を作ればいいではないか」、という考えは、問題の焦点がずれてしまうので考慮しない。それに、各種ワールドカップやらオリンピック、皇族を前にした日本人を見れば、否応でも日の丸や君が代がコンセンサスを得ていることは分かる。ここで問題とされるべきなのは、教育現場においてそれらが強制されることにどう立ち向かうか、ということである。
 私が第一に思いついたのは、本格的に身を挺した抵抗策である。入学式や卒業式がある度に、起立したくない生徒や教師は足、出来れば両足の骨を折り、起立できない体を作り上げるのだ。そして、「君が代斉唱。一同起立!」という掛け声がかかると、全員必死に起立しようと涙ぐましい努力をしてみせる。実際に泣いたってかまわない。そして、「私は立ちたいのに立てないんだ! 」と大アピールをするのだ。「そんなことやったってなんの解決にもならないではないか」と怒りだす人も中にはいるだろう。だが少し立ち止まって考えてみてほしい。ビラを何百枚も配って権力に逆らうのもひとつの抵抗策だが、たまには権力を思い切り茶化してみたっていいではないか。茶化して思い切り笑ってやればいい。悲痛な顔をして冷たい雨の中、何の関心もない大学生にビラを突きつけるくらいなら、入学式や卒業式を監視しに来る都の職員を呆気にとらせたほうがよっぽど面白い。
 もっとチンケな方法としては、起立するタイミングをわざと間違えるというのはどうだろう。「君が代」の「き」の音が発せられた瞬間、全員がドサッと起立してやればいい。そしてやる気満々で肩でも組みながら、大粒の涙を流して大声で君が代を歌ってみせる。「やっぱり物事には形というのがあってね」と、形から入る愛国心が必要である、という趣旨の発言をした石原都知事のことだ。こんな光景を前にしたら一緒になって涙してくれることだろう。必死の抵抗ばかりしていないで、たまにはみんなであのおじいちゃんを感動させてあげようではないか。
 このような話を友人としていたら、もっと現実的な案を出してくれた。それは、宗教団体を作ってしまうというものだ。君が代を歌ってはならず、国歌斉唱の際に起立するなどということも断じて許されない、という信条のもとに宗教団体を設立してしまえばよい。この二大信条以外は適当に作って、何とか宗教法人の承認を得るのだ。いくら愛国心を創出するためとはいえども、さすがの石原都知事も(汚らしい文句を吐くであろうが)、信仰の自由を承認しないわけにはいかないだろう。
 宗教団体と市民活動団体は似てもつかないものと考えられるが、「反戦集会」や「ピース・ウォーク」(デモの新しい呼び名らしい)といわれるものを見に行くたびに、必死に何かを訴える参加者たちの姿はどこか、宗教団体に集う人々に重なるように見える。必死に“平和”という理念にすがりつく彼らにとって、反戦、もしくは反政府運動は宗教のような役割を負っているかのように見えてくるのだ。税制上にも有利で、破壊行動をとらない限り文句を言われることもない宗教団体というものを、市民活動に従事する人々で結成してみるというのは、満更悪いアイディアでもないのではないだろうか。
 最後に、最も実現の可能性が高い案を。それは、国歌斉唱の際に忌野清四郎による「パンク君が代」のテープを使うというものだ。みんなで「パンク君が代」を大合唱。卒業生がバンドを結成し、生バンドが伴奏をするなんてことになったら、さぞかし式典も盛り上がることだろう。

 いつまでも悲痛な顔で抵抗運動をしていても面白くもなんともない。見ているほうも気分が悪くなる。そんな辛い運動はやめて、思わず笑ってしまいたくなる、権力を空振りさせるような抵抗運動が興ることを、私は密かに期待している。