愚行、愚行っていうけどさ

 年末から年始にかけて、郵便局で年賀状仕分けのバイトをした。社会性の無い私には、接客や電話応対などといった不特定多数の人間との接触がないこのバイト、かなり向いていたようだ。なんせ相手は担当の職員一名と、何千枚もの葉書のみ。それらの宛名と番地を見てひたすら分けるという単純作業は、私を無心にしてくれる。仕分け作業において私は、正に機械にならねばならない。文字と番地を読み取り、配達する順番が書かれた表の通りに上段、下段10ヶ所ずつに区切られた箱に年賀状を入れていく。頭の中で音楽を流す余裕さえも生まれない。そして、間違えは許されない。もしあなたの元に隣人宛の年賀状(に限らず郵便物)が届いたら、あまり良い気はしないだろう。ひょっとしたら、偶然紛れ込んだ近所の人の郵便物をそのまま自分のものとしてしまう輩もいるかもしれない。また都会では、隣人の名字さえ知らないこともあるだろう。知らぬ名前の郵便物が自分の家のポストに入っているというのは、ちょっと無気味な感じさえするかもしれない。第一、宛名の人物の元へ届かないのでは、差出し人に申し訳がたたない。だから、「バイトだしー」といったような甘い気持ちで仕分け作業に挑んではならないのだ。
 ところで、機械が郵便番号くらいしか読み取れないのは、機械が「文字」という概念を認識できないからに他ならない。ある棒線や点、曲線などの集合を「文字」として学習することでわれわれは初めて、字が「読める」ようになる。機械に字を「読ませる」ためには、相当な技術が必要となることだろう。人間でも、脳の障害かなにかが原因でどうしても文字を文字として認識できない人がいる。例えば、トム・クルーズはそんな障害を持つ一人だと言われている。われわれの脳が如何にして線や点の組み合わせに過ぎないものを、意味や音のある文字として読み取ることができるのか、その仕組みが分かれば、将来、人工知能などを用いた機械が登場したりして、郵便局員が半減する、いや配達以外職員は殆ど必要とされなくなるのかもしれない。
 トム・クルーズで思い出したのだが、映画『レインマン』に登場する自閉症の男、レイモンドは、物凄い桁数の計算ができたり、とてつもない記憶力があったり、また、床に落ちた楊枝の数を一瞬にして知る(似たような才能の例として、一瞬見ただけのビルを、窓の数を一つも間違えることなく描き出すことのできる少年がいる。凄すぎて、もはや何の能力なのか分かりゃしない)ことができたりする。しかし驚くべきことに、彼には「カネ」の概念がない。ここから予測できるのは、「数」の概念と「カネ」の概念は必ずしも一致しないということだ。カネは確かに数字によって表され、計算されるが、単なる数と異なる点があるとすればそれは、交換価値だろうか。貨幣については学ぼうとし始めたところなので、これ以上いい加減なことを言う前に、脇へ置いておくことにする。あ、いやしかし、「概念」という言葉でこれまた思い出したのだが、犬は光を理解できない。じゃぁ、犬は何か理解できるのかと問いつめられたら困ってしまうが、人間の感情を分かってくれるのは確かだ。だが、光に関しては全く分からない。勿論私も光に関しては殆ど何も知らないが、少なくとも光に質量がなく、そのものとしての実体がないということは知っている。しかし隣の家のわんちゃんは、懐中電灯の光を捕まえようと頑張っている。部屋の中で懐中電灯の光を床や壁にあてて動かすと、一生懸命捕まえようと全力でその後を追う。「そんなに捕まえたいならくれてやる」とでも言わんばかりに前足に光をあててやると、もうどうしていいのか分からず後ずさってしまう。「ある(のが見える)のに、ない」という奇妙さを前に、わんちゃんは戸惑うことしかできない。そして今日も光を捕まえようと暴れまわるのだ。
 さて、郵便局を始め、各種お役所とそこで働く公務員には何かと悪しきイメージがまとわりついている。競争にさらされないから事業の改善をしない、国家の犬、9時〜5時までしか働かない、怠惰、愚行ばかり、何かと対応が遅いなどなど、奴らに対する負のイメージを挙げていけばキリがない。確かに郵便局でのアルバイトは、初っ端の説明会からして酷かった。2時間、わざわざ時給(800円)を支払ってまで作業の説明を行うのだが、一回見れば、「あぁ、ああやるのね」とすぐに分かるような単純な作業なのにも関わらず、作業の実演をして見せるだけでは気が済まないらしい。細かいマニュアルが用意されているのだ。郵便番号ごとにわけられて来た年賀状を、おおまかに区分する作業のマニュアルは傑作だ。「作業の基本姿勢は、道順組み立て台の中央前10cmのところに立って、足は一直線上におよそ30cmくらい開き、上半身を軽く曲げ楽な姿勢をとります。」「郵便物を両手におよそ50通(5cmくらい)取り、左手で郵便物の中央部からやや下の方を横から持ち、親指を上に、他の四指を下にし、下端は小指で軽く支えます。」「郵便物を持った左手の位置は、体と棚のほぼ中程で、郵便物は目から30〜40cmくらい離します。」文章のすぐ横にはイラストが描かれているのだが、イラストと職員の実演で何をするか、十分分かる。むしろ文章はわれわれバイトを混乱させようとしているようにしか思えない。イラストで事足りることに関して、こんなに分かりにくく、人を煙りにまくような文章をわざわざ書いている人がいること、更にはその人物がこんな文章を書くことでカネ(もちろん税金! )を貰っているということを想像すると、もはや泣く気さえ起きない。しかもこの作業は午前中のバイトがやることなのに、何故かわれわれ午後バイトの連中にも知ってもらわなくては気が済まないらしい。また、バイトが始まる前に毎回ミーティングがあるのだが、そこでは毎回、「今日までに当郵便局では○百万枚の年賀状を仕分けしました。この後、更に×万枚来る予定です」と一々報告を受ける。うるせぇよ。なぜそんなこと知ってもらいたいのだ? 結局ミーティングとやらで5分くらい時間を使ってしまう。5分の間にどれだけ作業がはかどることか。
 郵便局内にはそこかしこに、「ばっかだなー」と思うことがあり、それはそれでなかなか面白かったのだが、一番の傑作はトイレの個室の中に貼ってあるはり紙だ。「トイレに異物を落とした場合は、流さずそのままにして会計係に連絡して下さい」。初めて見たとき、トイレの中で一人笑ってしまった。一体何故、会計係なのだろう?毎年くじ引きでトイレ係を決めているのだろうか?
 郵便局を運営していく上の人びとは確かに、トイレの異物処理を会計係にやらせ、人を混乱させる分かりにくい作業マニュアルを書き、5分という貴重な時間を下らない情報伝達で使い果たすような、種々の愚行を好む連中なのだろう。だが、彼らの愚行に踊らされ、ブツブツ文句を言いながら仕事をしている末端の郵便屋さんは本当に素敵な人たちなのだ。日々学校と同じように、チャイムという合図によって働きだし、休み、そして帰宅するという習慣が身に付いている彼らは、年賀状配達の準備のための、非日常的な勤務形態にうまく適応することができない。管理職の人間によって「職員の方、15分休憩でーす」と伝えられたおじさんたちは、「あれぇ? 休憩5分じゃねぇのー? 班長、俺たち15分も休んでいいの? 」、「え? 違うの? どうなってんのよもう? 」と大騒ぎである。何故か、休憩を告げた管理職の者に尋ねる職員はおらず、結局「5分か15分か」論争に5分も費やしてしまうのだ。同じ無駄な5分でも、管理職の人間の下らないミーティングに比べたら、愛おしいとさえ表現できるかのような無駄さである。また、バイトに対する感謝の気持ちも、上の人びととは比較にならない。郵便局としては、確かにバイトなしで年末年始を乗り切ることは不可能だろう。だから、管理職の者も「皆さん、本当にありがとうございます」とか口にしてみたりしていた。しかし、職員のバイトに対する感謝の態度を前に、その言葉がどれだけ空虚に響くことか。職員にしてみれば、自分の作業を手伝ってくれるバイトが一人ついてくれて、普段の倍とまではいかないが、かなりの作業をやってくれるのは相当有り難いことだろう。そのため、ただ単にカネを稼ぐために働きにきただけなのに、バイトは皆、びっくりするくらいに感謝されるのだ。ある人は最後の日に1000円分の図書券を「お礼」としてもらったそうだし、他の人は毎回のようにジュースやらお菓子やらをもらっていた。そして私も担当の職員のおじさんから、風月堂バウムクーヘンを頂いた。そんなに高価なものでは勿論ないが、時給を超えていることは明らかだ。朝から晩まで、普段の倍近く働きながらも、わざわざそんなものを買って来てくれたということに、私は感動した。もしかしたら、家族の者に買いにいかせたのかも知れないが、それにしても、なんて心遣いのある人なのだろうか。管理職の者のように、ただ単に口先だけで「ありがとう」と言うだけではない。感謝というボールの受け手であった私には断言できるが、彼の感謝の言葉やお礼のお菓子には、感情が伴っていた。
 時給800円という、私のなかでは最低賃金指定になっている薄給ではあったが、カネには還元できない、素敵な体験をすることができたのではないかと思っている。官僚組織がつくり出す、恐るべき愚行の数々に包囲されながらも、末端の配達員たちは何と生き生きしていることか。ネガティブな価値を付与された「就職」というものが現実味を帯び始めた今日この頃だが、私は、彼らにちょっとした希望のようなものを見い出すことができた気がした。