アラビア科学について

世界史のレポート一つ。

 (注)とあるのはすべて、

図説 科学で読むイスラム文化

図説 科学で読むイスラム文化

からの引用。コンパクトにまとまった良著だと思う。レポートの準備を始めたのが遅すぎて、これしか学校の図書館に残ってなかったというのが実際のところなんだけど。



 神を、唯一絶対で全ての創造物と見なすイスラム教徒にとって、この世の森羅万象を知ることは「神の創造のすべての側面」(注)を知ることである。また、ムハンマドの言動をまとめたコーランに次ぐ重要な啓典であるハディースでは、知識の追求が奨励されており、イスラム教徒にとって知的探究とは、「現世における人間の目的である公正と神の道に則った正しい生活を送る上で本質的な意味をもっていた」(注p.38)。他にも、イスラム教はその教義上、礼拝の時刻とメッカの方向、そして太陰暦であるイスラム暦における月の始まりを正確に把握する必要があるため、宗教的要請はそのまま学問の追求と結びついて行った。このような特徴を持つイスラム教が、ハンマドの死後急速に勢力を拡大して行った際に、征服先の文化や知的財産を破壊することなく継承していったということは、ある意味当然だったのかも知れない。また、イスラム文化は、ユダヤ教徒キリスト教徒のみならず、キリスト教から異端とみなされ、正統派キリスト教圏からはじき出された派の人びとをも「啓典の民」と認め、彼らの存在を否定しなかったため、宗教の如何を問わず、知的好奇心によって結び付けられた多くの優秀な人びとが、アラビア語を共通言語としながらイスラムの共同体に集結し、アラビア諸科学成熟の担い手となることができた。こういった、非-排他的な学問追求の態度が、ギリシャを始め、バビロニアペルシャ、インド、エジプト、果ては中国までもの文化を吸収した、究極の融合文化を造り上げていった。(余談ながら、このような流れを、「イスラムは寛容の宗教である」と言われる所以の一つと位置付けることも可能であろう。)
 さて、旺盛な知的好奇心を持つイスラム教徒は、ギリシャ哲学やイオニア科学を中心に添え、「知恵の館」(バイトアルヒクマ)を建設し、ギリシャ哲学の翻訳を押し進めていった。こういった学問共同体からはやがて、後世に名を残す哲学者たちが輩出されるようになる。「アラブの哲学者」の異名を持つアル・キンディー(873年没)は、「アリストテレスの著作の翻訳作業の最初の主宰者の一人」(注p.43)であるのみならず、「宗教、政治、科学を包摂した思想体系を確立することによって、信仰と理性の間の深い割れ目を架橋するという営為をともあれ達成した」(注p.43)。また、950年にその生涯を終えたアブー・ナースル・アル・ファラービーは、アリストテレスに次ぐ「第二の師」として知られる。彼は「プラトンの理想的な共同体とイスラム聖法の関係」を明らかにすべく、『アル・マディーナ・アル・ファーディラ』(理想国家論)を記した。1037年に死去したイブン・シーナー(ラテン名:アウィケンナ)は「存在論の哲学者」と呼ばれ、彼の思想はやがて、「スコラ哲学の発達に大きな影響」(注p.44)を与えることとなった。また彼は、医学においても傑出した業績を残しており、その著作である『医学の書』のラテン語訳は、16世紀になるまでヨーロッパの医学の教科書として使われていた程だ。
 ところで、9世紀から11世紀に「初期の黄金期」(注p.39)を迎えたイスラム哲学は、神や啓示は最も優れた理性であるとする、理性優位的な傾向にあったと言えるが、こういった流れに新たな潮流を生んだのが、「神秘主義の哲学者」と呼ばれ、1111年に天寿を全うするアル・ガザーリーである。彼は二十歳そこそこで大学の教授に就任するが、やがて神秘修行に打ち込むようになると、今までの考えは全て誤りであったとし、『誤りからの救い』を記す。彼は、理性の役割を認めつつも、「神秘的な思想家であるスーフィーを、真実に近づく能力という観点から、哲学者よりも上位に位置づけ」(注p.44)、イスラム思想における理性と神秘主義の比重を、逆転させるきっかけを作ったといえる。
 ところで、8世紀から12世紀までのイスラム世界の学問活動は、初期においてはバグダッドのみで行われていたが、10世紀から11世紀になるとイスラム世界全体へと広まり、12世紀には、かつての中心地からしてみれば辺境の地といえるモンゴル帝国やスペインがその中心を担うようになった。この3つの時代をそれぞれ、アッバース朝期、全イスラム期、アンダルシア・モンゴル期と呼ぶ。以下に、各時代に活躍した学者を、ヨーロッパに与えた影響を考慮しながら見て行くことにする。
 アッバース朝期には、ヨーロッパではゲーベルの名で知られる錬金術師、ジャービル・イブン・ハイヤーンが活躍した。彼の著した書物は、12世紀にラテン語に訳され、錬金術のバイブルとして重宝がられることになった。ロジャー・ベーコンは、「実験科学の祖」だとか「近代科学の先駆者」などと呼ばれるが、実は彼は、ハイヤーンの書物に書かれたことを試してみたに過ぎない。また、フワーリズミーは『アル・ジャブル・ワル・ムカーバラ』(「神の予定と未来」の意だが、内容とタイトルは無関係)という書物を残したが、そのあまりの斬新さに、ヨーロッパではこの書物のタイトルをとって、新しい学問分野が成立する。アル・ジブラ、即ち代数学である。彼の業績は、「その後の時代において可能となった高度に数学的な問題処理の窓を大きく開け放った」(注p.79)と言うことができる。
 全イスラム期には、先ほども登場したイブン・シーナーが活躍をみせた。また、イブン・アルハイサム(ラテン名:アルハゼン)は「光と人間の視覚について、事実上、すべての側面を探究」(注p.232)し、『キターブ・アル・マナージル』(光学の書)を著した。彼の視覚に関する研究は、レオナルド・ダ・ヴィンチヨハネス・ケプラーロジャー・ベーコンら、ヨーロッパの多くの科学者に影響を与えたし、ガリレイの望遠鏡の発明は、彼の書物に記されていることを実践した結果であった。
 アンダルシア・モンゴル期には、ラテン名アヴェロエスで有名な、イブン・ルシュドがスペインはコルドバに生まれた。彼は数多くいるアリストテレス注釈者の中でも「もっとも高名な注釈者」(注p.45)であり、また、ヨーロッパ人は、スペインで発行された彼の書物、『アリストテレス全注解』を読み、初めてアリストテレスの存在を知るに至った。トマス・アクィナスの「アヴェロイズム」は、正にアヴェロエスの理論をたよりにしたものであった。また、それまで絶対的な地位を誇っていたプトレマイオスの天動説に異議を唱えたアル・トゥーシーもこの時期に活躍した。彼の天動説への異議申し立てに、更に改良を加えたイブン・アル・シャーティルの写本を、かのコペルニクスが読んだ可能性はかなり高いとされている。
 欧米が世界を掌握する現在、歴史は常に、西欧的視点から紡がれて来た。そのため、われわれはあたかも、近代科学はヨーロッパでその産声を上げたと錯覚してしまいがちであるし、もっと言えば、近代科学の下地ともいえるルネッサンスでさえも、西欧人のみによって築き上げられたのだと勘違いしてしまう。しかし、アラビア諸科学が、西欧において知識や技術が飛躍的に発展するための必要条件であったことは、疑い様の無い事実である。西欧的まなざしによって紡がれて来た歴史を前に我々は、「十字軍」以外にもアラビア世界と西欧世界の接点があったことを知っておくべきであろう。